D.-8
「おい、テメー何で東京なんか行くんだよ!」
16歳の夏、房総半島から太平洋へと向かう漁船で、兄である航を突き飛ばした。
「ケンカすんじゃねぇ!海に投げられてぇのかテメーらは!」
父の声が聞こえてくるが、そんなのお構いなしだ。
信じられなかった。
ずっとこの漁船で一緒に過ごそう、父さんや母さんがいなくなっても、この港と海を守ろう。
…約束したじゃねぇか!
エンジンの音で航の言葉は何も聞こえない。
「声が小せぇんだよ!なんとか言えこの裏切り者!!!」
湊は航を思い切り殴った。
このまま海に突き落としてやりたい…そうとまで思った。
千葉に住む漁師と港町の定食屋を営む男女の間に、航と湊は産まれた。
5つ違いの、仲のいい兄弟だった。
「ワタル!おさかな見にいこう!」
「しゃーねーな。ほら、湊…これやるから。静かにしてろよ」
「ありがとーワタル!」
「いつになったらオレのこと兄ちゃんって呼ぶの?オレ、湊のアニキなんだけど」
航はいつもそう言って笑っていた。
ワガママにいつも付き合ってくれたのも兄の航だった。
湊は小さい頃から兄を名前で呼んでいた。
「兄ちゃん」と呼ぶのがなんとなく恥ずかしかったから。
それでも航は「おし、行くか」と言っていつも手を引いて自分の知らない、ワクワクする楽しい場所へ連れて行ってくれた。
定期で開催される魚の捌きは、昔からこの房総半島の港の名物だった。
色んな場所から色んな人がやってくる。
主催はもちろん父だ。
観客の目の前でのたうち回る大きな魚を鋭い何かで捌く。
6歳の湊には刺激が強すぎた。
航が一生懸命目を覆ってくれている。
見たいけど、見たくない…。
さっき一緒にいたあの大きな魚を殺してしまうの?
「湊…」
航が小さな貝殻を渡してくれる。
湊はテトラポットの端に座り、ヒンヒンと泣いていた。
見たくなかった……自分の思う漁師は、殺人鬼だったんだ。
「魚はね、食べられるのが幸福なんだ」
航は湊の肩を叩いて言った。
「コウフク…?」
「そ。幸福。『美味しい』って言って食べてくれる人がいたら、魚は幸せなんだよ」
「……」
「オレは、そーやって思ってくれる人を集められる人になりたいんだ」
「…?」
「湊は大きくなったら何になりたいの?」
「りょうしさん。…おさかなをあんな風にしないりょうしさんになりたい」
「そっか…」
「ワタルは?」
「オレはね、美味しいモノを作れる人になりたいな。みんなが喜んでくれるお店を開くんだ」
「ワタルはおさかなあんな風にしない?」
「約束はできねーけど…。ここの港と海を今よりもっともっとスゲーとこにしたいな」
「大っきくなったら、ワタルもりょうしさんしよー!」
「湊は夢がでっかいな」
航はニコニコ笑って湊の小さい頭を撫でた。
「……自分のこともちゃらんぽらんで、デキたコト言ってんじゃねーよ!」
航が湊を思い切り殴る。
「…ってぇ」
右の頬の内側から鉄のような味がする。
「甘ったれてんじゃねーよ。ガキのクセに」
航はそう言うと湊の服の胸ぐらを掴み、思い切り壁に打ち付けた。
当たり所が悪かった。
痺れるような痛みが脳天に放たれる。
湊は口から血を流しながら航を睨んだ。
「…ぁんだよ、その目」
「お前がふざけた事言うからだろ!」
思い切り航の頬を殴った時、後悔した。
父が「港へ戻せ」と船長に言ったのだ。
その夜、父は人が変わったように怒鳴り散らした。
今日は大漁の見込みのあった日だったらしい。
「漁船にはもう乗せない」
それが、その日の最後の言葉だった。