居候-11
(10)
冬はますます厳しさを加え、寒風が街を吹き抜けていた。一月も末のことだった。
授業を終えて石渡のアパートに帰ると、共同玄関から女が飛び出してきて村瀬に突き当たった。
「すみません……」
女は顔を隠すように頭を下げると俯いたまま小走りにすれ違った。村瀬はその後ろ姿を見送ってしばらく立ち尽くしていた。
(女は泣いていた……)
香水の甘い香りがたまらない切なさを心に募らせた。
部屋の前に立つと、勢いよくドアを開けた。屈みこんでいた石渡が驚いて顔を上げた。
「おぅ……」
石渡は畳を拭いていた。村瀬はそれを見て察した。そのとたん、微妙な感覚の怒りが込み上げてきた。
石渡は溜息をつきながら汚れた雑巾をゴミ袋に捨てると、村瀬が抱えている教科書に目をとめた。
「学校行ったのか」
村瀬は頷いた。
「ようやく行く気になったか」
返事をしなかった。
「そういえば試験も近いしな」
「そういうわけじゃない」
ぶっきらぼうに答えると、その口調に引っかかりを感じたらしく、石渡は口を噤んだ。
村瀬はテーブルに鍵を置き、
「何事もなかった……返すよ」
石渡は何も答えず、煙草を吸い始めた。苛々した吸い方だった。
「持ってたっていいんだぜ」
「いや、もういいんだ……」
村瀬も煙草を取り出して座った。
「誰か来たらしいな」
石渡はいったん俯き、わざとらしい欠伸をして、
「ああ…」と答えた。
「旅行社の女だろう」
「よくわかるな」
「玄関ですれ違った」
「そうか……」
石渡は村瀬を一瞥した。
「顔、知ってたのか?」
「……見たよ。支店の近くに行った時……」
「へえ、行ったのか。で、どうだった?」
「何が?」
「見た感想は」
「……きれいな娘だな」
居直った気持ちで言うとなぜか石渡は低く笑った。
「でも、子供だろう?」
「そうでもないよ。……さっき、泣いてたな」
石渡はふたたび苛立ちを見せて煙草を揉み消した。
「成り行きだったからな」
「ひどいな……」
「なにが」
「やり方がひどいよ」
「やり方も何も、据え膳ってやつさ」
「だって何とも思っていないんだろう?子供だと思ってるんだろう?」
「揚げ足をとるなよ。向こうからきたことだ。しょうがないだろう」
「すごい自信だな」
「何を怒ってるんだ」
「怒っちゃいないよ」
「だったら関係ないだろう」
石渡の顔は引き攣っていた。
険悪な空気が淀んで部屋が息苦しい。石渡は顔を背けたまま動かなかった。
(このままでは帰れない……)
村瀬は咳ばらいをして張りつめた二人の間に隙間を作った。
「学校はいいものだな。忘れていたよ」
石渡は、
「ああ……」と応え、何か言葉を続けようとしたようだったが、そのまま黙った。
「俺、これから授業に出るよ」
「うん……」
石渡は頷いてから、
「その方がいい」と力なく言った。
ふたたび沈黙が続いたが、少しずつ重苦しさが薄れていった。
「俺、自分の所に帰るよ。今まで世話になったな」
石渡の横顔に笑いかけた。
「勉強しないとな、そろそろ」
「そうだな……」
ぎこちなく微笑みをみせた。煙草に火をつけると石渡が灰皿を寄せてくれた。
「そうだ」
石渡は小さく膝を打ち、
「来てくれたんだってな、正月」
「ちょっと旅行のついでに……」
「悪かったな。いろいろ忙しくて」
石渡が煙草を咥え、今度は村瀬が灰皿を二人の間に置いた。
「新年会続きで参ったよ。飲み過ぎた」
村瀬は努めて明るい顔をしたつもりだったが、やはり苦い想いは残っている。
「で、いつ帰る?」
「……?」
「アパートにさ、自分の」
「ああ。今夜にでも」
「そんなに急がなくても」
「でも、決めたんだ」
「そうか……」
石渡は穏やかな視線を送ってきて髪をかき上げた。ほっとしているのだろう。
「それじゃまた飲まないとな」
「いや、やめておこう」
村瀬は咄嗟に自分でも意外な返事をしていた。
「なぜだ?金ならあるぞ」
「やめようと思って、酒」
嘘である。
「冗談だろう?」
「本当だよ。勉強しないと」
「へえ、そりゃけっこうなことだね」
石渡は明らかに気に障ったようだった。
「どういう心境の変化だ?」
「別に。何だか嫌気がさしただけだよ」
「俺は飲むぜ。死ぬまでな」
その顔にはまた硬さが戻ってきていた。
「でも、まあ……」
村瀬はひねくれた自分を意識しながら繕った。
「今日は久し振りだし、飲むか」
「無理をしなくてもいいんだぜ」
「いや、世話をかけたし、今夜は俺がおごるよ」
(今夜限りだ)
心で呟いた。そして石渡との決別に微塵のためらいもないことを確信した。その気持の区切りは呆気ないほどすんなりと心の裡をすり抜けていった。