居候-10
(9)
翌朝、異様に明るい部屋で目が覚めた。窓の下で誰かの声がする。
「三十はあるかな」
「いや、四十超えてるだろう」
人が歩く軋むような音。村瀬はその意味を理解した。
布団から出てカーテンを開けた。一面真っ白である。昨日の薄暗い街が信じられない眩い雪景色であった。一夜の変貌にしばらく見とれていた。雪はまだ降り続いているが、空は明るくなっていてとても眩しかった。
村瀬の故郷ではめったに雪は降らない。せいぜい遠くの山からの風花が舞うくらいである。
(石渡もこの雪を見ただろうか……)
すでに家には帰っているだろう。
昨夜電話をかけると彼はでかけていて、夜遅くなるということだった。村瀬は翌日また連絡をすると伝えておいた。
旅館から駅へ続く道路は中央から融雪ための水がちょろちょろと流れている。だから雪はシャーベット状になっている。村瀬は雪が楽しくて裏通りを歩いた。
雪は膝まである。皮靴は滑りやすくて何度も転んだが、かまわずかきわけて進んだ。
駅前のロータリーに面した喫茶店に身を入れた。石渡に説明しやすい場所がいいだろうと思った。
店の内部は思ったより狭く、若者のグループが一画を占領していた。
席についてコーヒーを注文するとカウンターの電話に向かった。
昨夜と同じ母親らしい女性が出て、村瀬は自分の名を告げた。愛想のいい応対にほっとしていると不在の言葉が続いた。心の片隅で予測してはいたことだった。大きな落胆はなかった。
「出掛けちゃったんですよ」
申し訳なさそうに言い、昨夜は遅く帰ってきて、今朝また出て行ったと説明した。
「お電話のことは伝えたんですが……ほんとにすいませんねえ」
相手は恐縮の言葉を繰り返し、夕方にでももう一度連絡をもらえればと言った。
村瀬は他の町の名を言い、これからそこへ向かうと嘘をついた。
「特に用事があるわけではないので」
「すいませんね。遠くから来ていただいたのに」
そうではないと言おうとして、もうどうでもいいと思った。
受話器を置くと何だか情けなくなった。
(何をしに来たんだ……)
煙草を立て続けに吸い、帰りの列車の時間を調べた。
外へ出るとすでに雪はやんでいて弱いながら陽がさしていた。朝のうち純白だった雪は融けかかってところどころ泥に染まっている。
村瀬はふたたび人通りの少ない道に入り、石渡宛の手紙の封を切った。そして数行目を通し、破り棄てた。踏みつけて雪をかぶせた。
正月の遅い眠りから立ち上がった商店がそろそろ店開きを始めていた。
石渡の部屋で石渡を待つ。−−それはもうひどく息苦しいことだった。
寒さの沁み渡った部屋で、村瀬はあと一度だけ、石渡に会ったら自分のアパートに帰ろうと考えていた。なぜあと一度なのか。理由というほどのものはなかった。すぐに出て行ってもよかったのだ。鍵はあとで送っても済む。
だが、長いこと居座っていたことを考えるとやはりけじめは必要だと思った。面と向かって別れを言うべきだし、詫びなければならない半年間の行状だった。
顔を合わさずに去っていく方が気は楽だとは思うが、厭な残滓が付きまとうような気がした。
「責任がある……」
村瀬は小さく口に出して言った。そしてふとおかしくなって笑いが込み上げ、すぐに泣きたいほど哀しい想いに捉われた。決断は背負い切れない自己嫌悪に耐え切れずに絡む想いを棄て去った結果であった。
授業が始まっても石渡はなかなか姿を見せなかった。
村瀬は自分の心に少しずつ変化が起こっていることに気づいていた。不安や苛立ちが日に日に消えていっているのである。
(部屋を出る決心がついたからだ……)
心には平穏な気持ちが潤いのように広がっていった。
村瀬は久しぶりに学校へ行って講義を受けた。すると自分でも経験がないほど授業に集中することができた。活気めいたものがどこからか芽生えてくるような不思議な期待感が蠢き始めた。
何冊も本を買い求め、その度に気持ちが弾み、充溢してくる。どうしてだろうと考えるより先にむさぼるように新鮮な喜びを追い求めた。それは忘れていたことを思い出した喜びではなく、まったく新しいことを発見した感動に近かった。
気持ちの在り方というものは理屈で突き詰めようとしても容易に処理できるものではない。数々の出来事の飛沫が時間をかけて心のあちこちに付着し、少しずつ浸透して、ある時、彼のほとんどを被っていた。いつの間にか自分にない何かが生まれていたのかもしれない。
何かを棄て去った時に何かが生まれる。村瀬は石渡との生活を思い、そこに何があったのかを考えた。そこには村瀬と石渡が存在していたという、ただそれだけだったような気がした。しかも、一定の形を持たない存在理由からくる足跡のような空虚なものしかないと思い至った。