C.-9
夜勤明け。
とっくのとうに他の先輩は記録を終えて帰ってしまっている。
陽向は睡魔に勝てず、何度もウトウトしてはチビチビと記録を入れるを繰り返していた。
何度目かのウトウトの時、思い切り椅子を蹴られた。
「うわぁぁっ!」
陽向は奇声を上げてパソコンのキーボードにおでこをぶつけた。
「…った」
「寝てんじゃねーよ。さっさと記録終わらせろ」
「すみません…」
なにも、蹴ることないじゃん。
あいつは悪魔だ。
陽向は心の中で瀬戸を殴った。
…てか、他の先輩帰ってるんだから、瀬戸さんも帰ればいいのに。
そう思っていた矢先、瀬戸は「お先」と言って姿を消した。
「お疲れ様です…」
あー、これでゆっくり記録できる。
陽向はノロノロと記録をし、11時近くになってから日勤に大丈夫かを確認し、休憩室へと向かった。
…あれ?電気ついてる。
一応ノックして入ると、瀬戸がソファーで眠っていた。
な…なんで。
なんかやり残し?他の仕事でもあんのかな…。
そう思いつつ、陽向は瀬戸を起こさないようにロッカーから静かにバッグを取り出した。
一応「お疲れ様でーす…」と小声で言ったのが間違いだった。
「…あ、終わった?」
瀬戸が目を覚ましてしまった。
「お、終わりました…。帰ります…」
「終わったなら終わったって声掛けろよ。待ちくたびれて寝たんだけど」
いや、別に待っててくれなんて言ってないし。
その言葉を飲み込み、陽向は「すみません」と謝った。
瀬戸は自分のロッカーから荷物を取り出し、「帰るぞ」と言った。
「あ、ハイ…」
瀬戸の背中を追いかけ、休憩室から出る。
エレベーターを待つ間も、中でも終始無言だった。
なんとなく、気まずい…。
「あのさ」
「はいっ?!」
更衣室の前で別れを告げようとした時、瀬戸が口を開いた。
「この後、時間ある?」
「えっ?」
「聞ーてんだけど」
「あ…あります」
「じゃあ着替えたら駐車場来て」
瀬戸はそれだけ言うと、更衣室へ入って行ってしまった。
なんだ…?
なんかされるの?
まさか、今日仕事が遅かったからって説教されんのかな…。
陽向はどんよりしながら着替えを済ませ、言われた通り駐車場へと向かった。
キョロキョロしていると、後ろからど突かれた。
「…ゔぁ!」
「おせーよ。何回人のこと待たせりゃ気ぃ済むんだよ」
あんたが着替えんのが早いだけでしょ!と、心の中で罵倒する。
なんなんだこいつは…。
「で…なんですか」
陽向がぶっきらぼうに言うと「さっきの話だけど」と瀬戸は地面を見ながら言った。
さっきの話…?
瀬戸は何も言わず、陽向をひと気のない木陰に連れ込んだ。
「進藤さんのことですか?」
「そ。誰にも言わないで欲しい」
「言いませんよ…」
「ってゆーのもさ、俺が付き合ってんのは高橋だから」
「えぇっ?!」
陽向は目を見開いた。
嘘でしょ…?
あんなにいつも言い合いしてるのに…。
あ、でも2人は同期だもんなぁ。
6年間も同じトコで働いてたら、そーなるのも分かる気がする…。
陽向がぐるぐる考えていると、瀬戸のバカ笑いが聞こえてきた。
「ははははっ!バーカ。嘘だよ」
一瞬にして怒りが込み上げる。
「なんなんですかっ!」
「お前からかうのちょーおもしれえ!病棟でもいっつもピーピー泣いちゃってさ。たまんねー、その顔」
怒りで言葉も出ない。
最低だ…こいつ。
瀬戸はケラケラ笑うと、陽向ににじり寄り「でも」と呟いた。
「そーゆーのほっとけないタチなんだよねー、俺」
瀬戸はそう言うと、陽向の後頭部を掴み、唇を奪った。
一瞬の出来事だった。
そんなことされると思ってなかったし、想像もしてなかった。
進藤さんが言っていた気を付けろって…こーゆーこと?
陽向は硬直して、どうすることも出来なかった。
夜勤明けの疲れや眠気なんてどっか行った。
ただ、涙だけが頬を伝っていた。
てか、進藤さんと付き合ってるんじゃないの?
あれ?高橋さんだっけ…?
なんなの…?
「なんで…」
「あ?」
「なんでこんなこと…するんですか…」
瀬戸は冷ややかな目を向けて陽向に言った。
「好きだから」
「……」
「お前の事が好きだから。文句ある?」
「だ…だって。瀬戸さんには進藤さん…あ、高橋さん…?っもー、とにかく付き合ってる人がいるじゃないですか!」
陽向が泣きわめくと、瀬戸はため息をついた。
「ばーか。そんなん過去の話だよ。この間のは学会の帰り」
「…うそだ」
「嘘じゃねーし」
「さっきだってうそついたじゃないですか…。もー…わけわかんない…」
「今は誰とも付き合ってない」
瀬戸はそう言うと、陽向の顎をくいっと持ち上げた。
「その顔マジたまんねー。彼氏やめて俺の女になれよ」
「…っやだ!意味わかんない!」
陽向はキレて瀬戸の腕を殴った。
本当に最低な奴だ。
敬語も使いたくない、こんな奴…。
大っ嫌いだ…。
例え、先輩だとしても。
「……」
瀬戸は何も言わなかった。
ただ、傷付いたような顔をしていたのは確かだった。
「…お疲れ様です」
陽向は涙と唇を皮膚がなくなるくらい擦りながらその場から立ち去った。