(その3)-5
カオルくんの退院の日だった。私は白い杖を手にしたカオルくんの手を引いて、病院から駅へ
続く並木道をゆっくりと歩いていく。秋の夕陽が私たちをオレンジ色に染めていた。ほとんど
何も見えないというのに、微かに見開いたカオルくんの瞳の中に私は、あのころカオルくんが
見ていたひこうき雲と私の姿が重なり合うように映っているような気がする。
そして、病室でカオルくんと交わった時間は、私の中で止まったままなのだ。いや…もしかし
たら、私が高校三年生のときにあの駅でカオルくんの優しげな眼差しを背中に受けたままあの
街を去ったときから時間は止まったままなのかもしれない。
不意にカオルくんが立ち止って言った。
「変なことを聞いてもいいかな…。ノリコさんって、風間 澪というAVの女性を知って
いますか…」
私は彼の言葉を避けるように、彼の手を離した。
「知らないわ…。そんな女性…」
嘘なのに、自分で嘘だとは思わなかった…。「風間 澪」が今の自分と別人のようにさえ思え
てきた。そして、その言葉にカオルくんの頬が微かに弛んだような気がした。
彼は見えない目の瞼を微かに瞬きさせ、何かしら心の中に溜めたものを零すようにつぶやいた。
「無理だとはわかっているけど、ノリコさんに言ってもいいかな…」
「ええっ、急になにかしら…」
カオルくんはふと空を見上げた。何も見えないのにやっぱり空の方を見るのだ。心の中で苦笑
した私も彼に誘われるように空を見上げた。カオルくんの見えない視線の先には、秋の黄昏色
の雲が水彩画のように広がっていた。カオルくんが私の手を強く握り、小さく呟いた…。
「ノリコさん、ぼくと結婚して欲しいんです…」