鎖に繋いだ錠前、それを外す鍵 2.-1
2.
玄関に入ってすぐ、まっすぐ伸びた廊下の先のリビングでタンクトップとホットパンツ姿で大きなクッションにあぐらをかいた智恵がビールを飲みながらテレビを見ているのが見えた。テレビの方へ顔を向けたまま、缶に口を付けて飲む横目で遠くから侮るような笑みを向けてくる。友梨乃はすぐに顔を背けると靴を脱ぎ始めた。ブーティは壁に手を付きながらサイドファスナーを降ろさなければ脱げなかった。その間ずっと智恵の目に晒されていることになるから、もっとすぐに脱げる靴にしておいたらよかったと後悔した。スリッパの音が近づいてくる。玄関に上がった時には、目の前に智恵が腕組みをして壁に肩を凭れさせながら立っていた。
「ただいま……」
「おかえり。……なんー、早かったね?」
「あ、うん……」
智恵の傍を通りすぎて自分の部屋へ入った。バッグを床に置き、ジャケットを脱いだところで溜息が出た。男に交際を申し込まれたことはこれが初めてではなかった。だが、これまでは「好きな人がいる」の一点張りで断ってきたものを、友梨乃の真実を明かして断ったのは陽太郎が初めてだった。友梨乃にそうさせたのはもちろん、この家に招き入れ、途中まで体を許したために他ならなかったが、陽太郎だけを特別扱いしたのが贖罪からきたものだったのか、自棄からきたものだったのかは自分でもよく分からなかった。何にせよ塞いだ気持ちになる。きっと陽太郎を深く傷つけてしまっただろう。
「……ちゃんと話した? ヨーちゃんに」
振り返ると、音もなく智恵が部屋に入ってきていた。友梨乃は何かを言いかけ、そのまま口をつぐんで俯いた。
「その様子やと、ちゃんとホンマのこと言うたんやねぇ? 頑張ったやん?」
揶揄する表情だ。友梨乃は智恵の言葉を聞きながら、また瞼が熱くなってきた。だが、ここで泣きたくはなくて、懸命に唇を噛んでこらえようとした。
「何でヨーちゃんには言うてあげようと思たん?」
「別に……。しつこそうだったから、本当のことを言ってあげただけ」
智恵の目を見ず、地面に目線を落としたまま言うと、あはは、という笑い声が聞こえてきた。
「ヤラしてあげようとして、でけんかったからやろ?」
友梨乃はハッと顔を上げて、怪訝な目で智恵を見た。「何で知ってんの? みたいな顔してるね?」
智恵は腕を組んで頭を傾けると、蔑む態度を浴びせてきた。
「……ユリ。バスタオル貸したんやったら、ちゃんと隠しとかんとね。あんた一人で2枚も使うわけないやろ? タオルから男の匂いプンプンしてた。……そーいうとこ、ヌケてんのね、ユリって」
本当に可笑しそうな笑み声で嘲られる。「けんど、でけんかったんやろ? あの子の目見てたら一発でわかったわ。ホンマにあんたに狂いそうになってた。……おもろいなー、あんたって、そうやってオトコを惑わせんの、ホンマ得意やねぇ? ヤラせてあげれんクセに」
「智恵っ……!」
かすれた声だったが、強い嫌悪感を含ませて言った。言ったが、そこまでしか言葉が出てこない。
「なん? ホンマのことやろー? ……この前私に言われたから、オトコとヤッたろうって思たの見え見えやし?」
腕組みしたまま智恵が近づいてくる。
「やめて……」
後ずさりして、ベッドに脚を取られて転びそうになったのを何とか支えて体勢を整えた時には、すぐ前に智恵に立たれていた。
「……やめとき。ユリってニセモンの女なんやから」
智恵が友梨乃の肩に片手を回して引き寄せ、もう一方の手で髪を掻き上げるように頬を撫で、自分の方へ向けてくる。
「やめて……」
「全然濡れんかって、話にならんかったんやろ?」
智恵の唇が近づいてくる。やめて、と三たび言い切る前に唇を塞がれた。艶かしい舌が入ってくると、力が抜けて逃げることができない。触れるキスだった陽太郎と正反対に、智恵は深く舌を友梨乃の口内に差し込んできて音を立てて吸い立ててきた。
意を決して顔を智恵から離し両手で押し返すと、意外にも容易く智恵が後ろに下がった。
「怒ってんの? ホンマのこと言われて」
「……」
「なに? 別にえーよ、私に気使わんで。私のことイヤなんやったら、この家出てったらええやん? ……また、一人で泣いてたらええ」
「……なんで……、そんなこと言うの」
智恵と自分と両方に挑んでいた闘いは、どちらにもあっさりと敗北して、我慢していたぶん一気に涙が床にポタポタと落ちていった。
友梨乃の父親は実業家だった。友梨乃の祖父から事業を承継し、もともと順調だった国産商品だけでなく、輸入品も取り扱うようになると、拠点だった岐阜だけでなく名古屋・福岡にも事務所を構えるほど事業を拡大させていった。若い頃に妻に死別していたが、事業が軌道に乗ると四十歳も後半を迎えてから二十代の妻を迎え、すぐに友梨乃が産まれた。父親と前妻の間に子は無かったから、裕福な家の一人っ子として友梨乃は不自由なく育てられた。だが父親は会社の代表として日々忙しく、殆ど友梨乃はかまってもらえずに子育ては母親に一任されていた。母親は旧家の出だったから、家格・家柄にはうるさく、世間の目に応えるために友梨乃は幼稚園から名門私立に入れられた。学校だけではない。幼い頃から様々な習い事をさせられた。中でも母親自身が己の才能の乏しさに諦めざるを得なかったピアノは、小学校に入る前から専門家を呼んで徹底して教えられた。コンクールに出て良い成績を収めると母親は我が事のように喜び、そして敗れると烈火のごとく友梨乃を叱責した。子供の頃の友梨乃がピアノに邁進したのは、ただ母親の恐怖から逃れたいがためだけだった。