鎖に繋いだ錠前、それを外す鍵 2.-2
中学からは系列校の女子校に進んだ。名門私立だから富裕層の子供が多く、皆その自負があった。友梨乃にも少なからずそんな矜持があった。仲良くおしゃべりをしている時でも、どこかしら相手を隙を覗うような微妙な空気が漂っている。
部活はコーラス部を選んだ。コンクールに出るほどのピアノの腕前を知った部長が伴奏者として勧誘してきたからだ。服罪のような毎日のピアノの練習とは違い、コンテストの成績には拘泥しない「仲良しクラブ」的な部だったから、芸術性を気にせず純粋に音楽を楽しめた。弾くことが楽しかった。ピアノを弾くと唄っている子たちが喜び、誰よりも自分を誘ってくれた部長が喜んでくれた。
その部長が高等部へ進み、中等部のコーラス部を辞める時、友梨乃はそれまで育んできた想いを告白した。
「……、そ、……そうなんだ。あ、ありがとう。でも、ごめんね」
失恋した。そして周囲の様子が変わった。友梨乃の噂がたちまち広がっていく。気持ち悪い、とハッキリ声に出して友梨乃を評する者もいた。女子校であるから、そのような嗜好がある女の子はたくさんいた。だが、家庭の裕福さだけでなく、成長期に入ると一際見目の整美が際立っていく友梨乃への嫉みが、悪聞の蔓延を手伝った。直接的な攻撃ではない、距離を取られるのだ。そして同じ時期に母親が、ピアノ練習があるから必要最低限の授業にしか出さない、と学校申し入れ、受け入れられたという優遇が更に友梨乃の孤立に拍車をかけた。
友梨乃が床を涙で汚すのを見て、智恵は鼻で息をつくと、
「……この家出て行ってもどーしようもないやろ? 私おらんようになったら、なーんもなくなるよ?」
片手を伸ばして友梨乃をトンと押した。力なく友梨乃はベッドに倒れこみ、すぐに智恵が獣のように背を反らした四つん這いで友梨乃を跨いで覆ってくる。友梨乃の歔欷を笑いながら、「ね? 謝って? ユリ。ごめんって言うたら、してあげるから」
「……なんで、謝らなきゃ……、いけないの」
友梨乃は怨嗟の涙に揺れる瞳で智恵を見上げた。
「ニセモンの女のくせに、ヨーちゃんみたいなええ子、イジメたから。許されへんわぁ、大阪人イジメるん」
中高時代、自分は普通ではない、という自覚はひどく友梨乃を苛んだ。ただでさえ均質性に敏感な年頃だ。芸能人や近所の公立高校のカッコイイと云われる男子生徒に興味を示すことができない自分に、周囲の倦厭はごく当然のことで、自分のほうがおかしいのだという思いに塞がれた。友梨乃はその底の見えない沈鬱を苦行であったはずのピアノに没頭することで避け始めた。母親は友梨乃が年齢重ねるに従って更にピアノに執着を見せたが、もはやそれすら気にならないほどに打ち込んだ。少人数制をとっているため、高等部に進んでも同級生の顔ぶれは殆ど変わらない。従って友梨乃を取り巻く状況は変わらず、部長に告白してから高校を卒業するまでの5年間、あまり行かなかった学校では常に一人で、以外の時間のほぼ全てをピアノに費やすことになった。高校を卒業すると指導していたプロピアニストの推薦で、防音が施された寮が完備されている東京の私立音大に進んだ。名門音大と言われる大学に進みたかったというのはもちろんあるが、何よりも岐阜を離れたかったのだ。
音大は共学だったが、思春期を女子校で過ごし、よく考えたらピアノに関わる中高年の男以外とは一切口をきかなかったから、男の子とどう話していいかわからなかった。この時になると友梨乃は男の目を惹きつけずにはいられないほど優美に成長していたから、うまく話せなくとも自然に好意を寄せられ、告白され、断り続けた。そして同じ音楽に打ち込む同学の女の子に友梨乃が惹かれることもあった。だが中学生の時のトラウマがある。だから雑談している時にそれとなく、女を恋愛の対象として見れるかどうかを覗うと、好意を寄せる相手の答えは全てノーだった。友梨乃は東京に出てきても自分を受け入れてくれる人間は誰もいない哀しみを紛らわすようにピアノの修練を続けていた。母親のためではなく、この先一人で過ごすことになるだろう自分のために、このピアノで身を立てようと努力した。
入学して半年後、父親が社運を賭けた事業に失敗して代表の座を追われると同時に失踪した。それから一週間後に母親が山中に停めた車の中で遺体となって見つかった。警察に呼ばれて事情徴収を受けたが、岐阜を離れて以降、母親のことは一切関知しようとしなかったから、殆どの質問には答えることができなかった。母親は一人で死んだわけではなかった。煉炭が燃やされた車の隣には友梨乃と同じ歳の若い男がいた。ネットで知り合った精神喪失者と前日にラブホテルに一泊し、そのまま山中に向かった、争ったあとはなかった、と警察から告げられた。父親が行方をくらまし、程なくして無残な形で母親を失った友梨乃に警察は最大限の配慮をして事件のあらましを伝えたが、父親と母親を失ったこと自体は友梨乃に深い哀しみを与えなかった。仕事が生き甲斐だった父親は、事業で失敗したことが耐え難かったのだ。旧家のプライドが高い母親は、裕福な暮らしから転落することが耐え難かったのだ。動機については全くの不可解な点はない。納得感は友梨乃に哀しみを催させなかった。