錯覚と秘密-1
8月X日 水曜日 晴れ
宗教色を漂わせながらもサイエンスとミステリーを融合させたその映画は、思いのほか恵利子の感性を刺激した。
「不易くんは“聖杯”についてどう思う?」
可憐な容姿に似つかわしくない、コアな質問を彼女はいきなりぶつけてくる。
それは最低限の知識を持った上で映画に誘ったんですよね?
そう質問されているようにも聞こえるが、もちろん僕の予習に余念はない。
今、映画の興奮の余勢をかって、何とか恵利子とコーヒーショップの中にいる。
少しでも時間を共有したい僕は上映終了後、先日の“お茶のお礼にお茶を”と意味不明な言葉で何とか恵利子の引き留めに成功する。
紅茶ではなくコーヒーショップに入ってしまった事は、あとで気付いたことで失敗だったが、季節がらアイスティーもあった事は不幸中の幸いであった。
僕の受け答えは完璧とまではいかないまでも、恵利子の知的好奇心の水準を満たした事はその表情から窺える。
今日の僕には恵利子のパーソナル性に近づくと言う目標があったが、不用意に踏み込めば地雷を踏みかねない危険も同時にはらんでいた。
しかしよりいっそうのコミュニケーションを図る為に、そこに踏み込まない訳にはいかなかったのだ。
「磯崎さんは神聖な色って言われたら、どんな色を思い浮かべる?」
その質問自体には何の目的も無かったが、前述の話題からそれずに好みの色からの関連づけで、趣味趣向の方向に話題を振る計算があった。
恵利子がそうした様にいきなり核心に迫る事は出来なかったが、その試み自体は上手く行き話題は途切れずに済んだ。
そして時折見せる可愛らしい仕草や、その洗練された会話力は時が経つ事を忘れさせる。
「淡い色使いで薄めの紫やピンクなんか…… 」
好みの色合いや身に着ける物に話題が触れた時に、僕が瞬時に思い浮かべてしまった事は無粋で卑下ていたが、それだけ鮮烈な印象を残したとも言えていた。
それは恵利子が身に着けていたアーガイルピンクの下着であった。
あの日の彼女からは普段とは違う“香り”…… と言うよりも、艶めかしい“匂い”の様な物を感ぜずにはいられなかった。
普段目にする事が叶わぬそこは僕の視線を釘付けにさせ、いつの日か触れ口にする事さえ妄想させる。
淡いピンク柄の薄布に浸透した暑さは、僕の望み…… 欲望を露骨なまでに浮かび上がらせていた。
「不易くん、どうしたの?」
あらぬ方向に意識が飛び呆けた表情の僕だったが、優しげに小首を傾げこちらをうかがう彼女に現実世界に引き戻される。
その仕草にドギマギさせられた僕は、何故か“幻覚?”で視た彼女ともその妹とも取れる存在が思い浮かび、唐突に話題を変えていた。
「磯崎さんって三人姉妹なんだよね?」
そこには何故か幻覚で視た四人目は居ませんよね的な疑問が込められていた。
「それって? お母さんの事についての疑問? 良く言われるよ、お姉さんですかって?」
聡い彼女は僕の微妙な言い回しから、若く美しい母親についての事だと思ったらしく、悪戯気な笑みをにじませ頬を緩める。
「そう言えば不易くんの印象は良かったらしくて、特に若菜には気に入られたみたい?」
(わかな?)
いまひとつピンと来なかったが、数秒の間隔をおいてその名がもうひとりの双子の妹である事を思い出す。
「わかなちゃん? 確か一緒に駅まで見送ってくれたのは、汐莉ちゃんだったよね?」
不思議な感覚に聞き返していた。
実際当日話しかけてきたり見送りをしてくれたのは汐莉ちゃんの方で、もうひとりの妹さんは終始無言でおとなしかった印象のみ残っていた。
「活発な汐莉に比べて、若菜は人見知りで恥ずかしがり屋さんなの。でも不易くんが帰った後、自分も駅まで見送りに行きたかったって言ってたし、また遊びに来て欲しいとも言ってたよ」
彼女はとてもフラットな表情でそう付け加えた。
「それって、ちょっとうれしいかな」
何気ない切っ掛けからではあったが、そこから話題は膨らんでいく。
妹たちの話をする彼女はとても楽しそうで、そこに時折彼女自身の事が織り込まれ時間は過ぎていく。
この日の目標は果たせ、また一歩“彼女”へと近づけたと思える。
それは彼女自身の事も含めた家族の話題に触れられた事に他ならない。
しかし帰宅後楽しかった時間を繰り返し思い返してみると、話から得た以上の情報が蓄積されている事に気付かされる。
“既視感”と言う物に近い感覚なのだろうか?
それとも単なる錯覚なのか?
この時の僕にはそれを深く考える余裕も無く、ただただ不思議な感覚だという事しか考えられなかった。
後にそれが大きな秘密を知る切っ掛けになるとは知らずに……