重なり-3
――それから三日後
冬樹が勇輔への手紙を書いて6日が過ぎた。
その日彼は、朝からピアノの蓋を一度も開けることなく、プールの見える窓際に力なく佇んでいた。
ついにプールの窓に緑のタオルが掛けられることはなかった。冬樹は思った。つまり勇輔から完全に無視されたのだ。冬樹はこの熱い想いを彼に伝えたのは間違いだった、と自分を責めた。
プールサイドのミーティングが解散するのと同時に、冬樹は音楽室を飛び出した。
明くる日、店の手伝いをさせられていたうららは、レジから初老の男性が離れた後、ふと足下に目をやった。
「あれ?」
冷蔵ショーケースの下から白い封筒が少しだけ覗いている。うららはそれを拾い上げた。
「生命保険のダイレクトメールと……えっ?!」
重なった白い封筒がダイレクトメールの後ろに張り付くようにしてあった。
「兄貴宛……」うららはその封筒を裏返した。その途端、うららは思わず大声を出した。「冬樹!」
整った丁寧な字でサインされたその手紙を握りしめ、うららは慌てたようにエプロンを外し、店の奥の父親に一声、出かけてくる、と叫んで表に飛び出した。
「(これ、きっと冬樹の想いが書かれた手紙なんだ!)」
頭頂部も襟足もつんつんと立ってしまうほど髪を短く切った冬樹は学校の音楽室にいた。そしてピアノに向かって座ったまま、プールが見える窓にちらりと目をやった。
「(今日で最後にしよう……)」
彼はピアノの蓋を開けると、静かに音楽を奏で始めた。
プールサイドにいた勇輔は、思わず顔を上げ、音楽室の見える窓に駆け寄った。
「なんだ、どうした勇輔」
プールから顔だけ出した秀島が怪訝な顔で勇輔に言った。
勇輔は何も言わず、音楽室から久しぶりに聞こえてきたピアノの音に耳を傾けていた。しかし、その音楽はすぐに途切れてしまった。
勇輔は振り向いて言った。「秀島、俺、ちょっと用事で帰らなきゃなんねえ。後は頼んだ」
「え? お、おい、勇輔!」
慌ててプールから上がった秀島は、焦ってロッカールームに駆け込む勇輔をますます怪訝な顔で見やった。
どす黒く怪しげな雲がもくもくと頭上の空を覆い始めていた。
ひんやりとした風を頬に受けながら自転車を飛ばし、息を切らして学校にやってきたうららは、芸術棟の入り口に兄勇輔が駆け込んでいくのを目撃した。
「勇輔兄貴!」
うららは叫んだが、勇輔の耳には届かなかった。
勇輔は廊下を走り、音楽室のドアを乱暴に開けた。
ピアノの鍵盤を見つめながらうつむいていた冬樹は、驚いて顔を上げた。
荒い息を落ち着かせながら、勇輔は言った。
「お、おまえのピアノを聴かせてくれ」
冬樹は目を丸くしたまま、震える声で言った。「え? ど、どうして?」
「部活中に聞こえてくる、お、おまえのピアノの音がずっと気になっててさ……」
「ず、ずっと……気になって?」
勇輔は神妙な顔で続けた。「ああ。俺、最初は鷲尾っちが弾いてんのかって思ってた。こないだも言ったけどうまいのな、おまえ」
「そ、そんなに上手じゃないよ……僕」冬樹はうつむいた。
「ちょ、ちょっとだけ、弾いて聴かせてくれよ。一曲聴いたら俺、す、すぐ出て行くからよ」
しばらく泣きそうな顔で勇輔を見つめていた冬樹は、意を決したように椅子に座り、ピアノの鍵盤に向かった。
ごろごろと遠くから雷鳴が聞こえた。
冬樹は心に閉じ込めた想いを抱えたまま、切なくも情熱的な激しい曲(ベートーヴェンのピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2の第3楽章)を弾き始めた。
いつしか彼の瞳から涙が頬を伝っていた。
「(弾き終えたら先輩はここを出て行く……。このまま弾き続けて、そのまま時が止まってしまえばいい!)」
その、耳に突き刺さるような音を聴き続けることに耐えかね、勇輔は背後から冬樹の肩を押さえた。
「もういい! それ以上弾くな。辛くて聴いていられねえ」
「せ、先輩……」冬樹は弾くのを止めて振り向き、背後に立つ勇輔を見上げた。
「いつもと違うじゃねえか! 俺が聴きたいのはそんなとがった演奏じゃねえよ」
勇輔は荒げた声を少し落とした「俺、おまえには、もっと柔らかくて、繊細な、っつーか、心癒やされる音楽を奏でて欲しいんだ」
冬樹の胸は図らずも熱くなっていた。しかし、彼は肩に置かれた勇輔の手をふりほどき、叫んだ「どうしてここに来たの? どうして僕に会いに来たの? 僕の手紙を無視したくせに!」
「手紙?」
「先週先輩に出した手紙」
「な、何のことだ? 俺、見てねえぞ……」
その時勇輔の携帯のメール着信を知らせるアラームが鳴った。ディスプレイを見た勇輔は小さく呟いた。「うららだ……」
ちらりと冬樹の顔を見た後、勇輔はディスプレイにタップして、メール文を開いた。
『兄貴に渡さなきゃいけないものがあるの』
「俺に?」
その時、がたんと大きな音がして、勇輔は目を上げた。それは冬樹が椅子から立ち上がった音だった。
冬樹はそのまま溢れる涙を拭おうともせず、音楽室を飛び出していった。
「おい! 待てよ!」勇輔は叫んだ。