茶葉と映画-1
「昨日恵利子がお世話になったそうで…… それでよろしければお茶でも、ご一緒にいかがでしょうか?」
電話の相手は透き通る様な声で、おそらくそんな感じの事を言っていたと思う。
実際にはすごく丁寧な口調でお礼的な言葉をいろいろと言ってくれていたのだが、そう言った言葉がどこかに飛んでしまう程に緊張し興奮した。
意味合いとしては大きく異なるのだが、恵利子の家に遊びに行ける!っと言うより招待された?
その一点のみに舞い上がってしまい、他の言葉全てが何処かに飛び散っていた。
午後三時、まさに午後の紅茶って言うやつでしょうか?
期待と興奮とが入り混じった、緊張の中に僕は居た。
もっともそれは決して居心地の悪いそれではなくて、ベクトル的にはそれと正反対に向いた物と言えた。
(紅茶って…… 茶葉から淹れるんですね?)
目の前に置かれたお上品なティーカップ。
ティーポットより注がれた琥珀色の液体からは芳香が、添えられた焼き菓子も平面でしか目にしない物である。
炭酸飲料にジャンクフード的なイメージしか無い僕にとって、磯崎家のそれはまさに異次元空間と言えるものであった。
加えてとても広々としたL.D.K.には、家主のセンスをうかがわせる家具たちが鎮座している。
この時僕は学校での恵利子が、決して気取って澄ましている訳では無い事を理解した。
「不易一文さんって、とても素敵なお名前ね」
目の前の綺麗な女性は、そう言いながら知的な笑みを浮かべる。
(変わった名前ですね、どんな字書くんですか? へぇ〜、珍しい!)
今まで不易(ふえき)と言う姓を聞いた人たちの反応は、おおむねそんな感じが多かった。
「いつまでも変わらない…… ひとつの言葉…… 」
不意に神妙な面持ちで、まるで詩でも諳んじるようにその女性は続けた。
それは僕にとって、いつか両親から聞かされた言葉そのままでもあった。
「もうお母さんったら、初対面なのに恥ずかしい」
僕の右側に座る恵利子は、そう言いながら頬を赤らめる。
(ん? んぅっ? お母さん?)
「えっ!」
恵利子から発せられたお母さんと言う単語に、複雑な間合いで僕は小さく絶句する。
もしかしたら…… いやいや、そんなはずはと思っていたが、それにしては若すぎると言うより美しすぎると思えた。
実際どう見ても二十代半ばで、女子大卒業したてのお姉さん位に見て取れる。
とても高校一年生の娘が居る三児の母には見えない。
それでもその女性の理知的な印象が、俗に言う“単なる若く見えるだけ”的なイメージを払しょくし、完成された美しい大人の女性像を創っていた。
絶句する僕は思った事を口にはしなかったが、お母さんも恵利子もそれを察する様な雰囲気をにじませ、少なからず場の緊張が解けた気がした。
「ねぇ、遊ぼう?」
気が付くと愛らしい幼女が、無邪気に小首を傾げそう言っていた。
おそらく見慣れぬ男子高校生に、興味を抱いたのであろう?
恵利子には双子の妹が居て尋ねた訳では無かったが、本人たちが口にしていた事でその名を知った。
(僕は決してロリコ…… いや、幼女趣味は無い、断じて無いのだが)
この双子の妹が可愛い、めちゃくちゃ可愛いのである。
綺麗なお姉さん、いやお母さんに恵利子、そして可愛らしい妹たちに囲まれ……
(僕はもう、部屋全体を包むそんな雰囲気に、馬鹿になっちゃいそうで……)
その後何故か、お母さんを含め皆でトランプに興じた。
場違いな感覚はあったが、楽しいひと時が過ぎ、気が付くと時計は18時を回ろうとしていた。
「あのっ、厚かましいお願いで恥ずかしいのですが、そのDVDお借り出来ないでしょうか?)
帰り際僕は、誰に向かって言う訳でも無く、小さめの声でそう口にした。
大型テレビ脇に無造作に置かれたDVDは、以前読んだ本と同タイトルであった。
恵利子との“細い繋がりを切らしたくない”と言う気持ちから出た、僕にしては咄嗟の機転であり勇気であった。
それが出来ればDVDを返す為に、またここに来る口実が出来る?
後で考えればDVDの返却は学校でも出来たし、誰の持ち物かも解らないので非常識な事を口にしたと反省した。
しかし非常識且つ些細な勇気は、僕にとって大きな幸運をもたらす事になる。