彼の居ない世界-7
浴室から湯煙が黙々と、夫が風呂にでも浸かったのか、そんな感じでもなく。半開きになった扉を開け、中に入る、すると。
風呂場なのに着衣を纏った夫、その彼が目を見開き、抱きかかえている物を目にする。
「あ、杏…。」
信じられない光景。顔を白くしぐったりする杏、夫が手首を必死に抑えてるものの、手首から流れる血、先ほどまで流れ居たお湯、この状況は言うまでもなく。
「おいっ!しっかりしろ!おい、杏っ!」
「ぅ…あ、……き、ずな……今、行く。」
「……。」
「何ふざけた事言ってんだっ!今救急車を呼ぶからな、今ならまだ間に合う筈っ!華、杏を頼むっ!」
そう言って浴室を離れる夫。
「わた…し、もう…だめ…だよ。」
「杏…。」
抱きかかえ、か細い声を絞る杏。
「ごめ、んなさいお母さん…、私…も、ね?挫けず…前を、向こうと…した、の。」
「もういいよっ!喋らないでっ!」
「でも、今回…ば、かりは…ダメ…だった…。」
「……。」
「心配…かけて、ごめん……、でも、でもっもう…私、耐えられない…の、あの虫も殺さぬ優…しい、彼が、こんな…わた、しを…いつでも暖かく、傍に居て…くれる、彼が、大好き…だった。」
「杏…。」
「あんな…良い人…他に、いない。だか…ら、おね、がい…お母さん…、許して?こん、な我儘…で、弱い娘を、…もう解放…して?くる…しいの。」
杏、杏っ……。
血が一向に治まらない、このままだと、もう…、救急車が急いで来るだろうけどこれじゃ
助からない、お願い!助かってっ!
……。
助かる?一体何が助かるって言うんだ?
娘はこんなに苦しんでる、大好きな彼氏が死に、もはやこんな世界に絶望を感じた娘が。
…仮に一命を取り留めたとしてどうなる?再び同じことをし兼ねない、いやそうでないにしろ娘は苦しむ事に変わりはない。
俺達で必ず娘を立ち直らせよう!
つい数分前、夫が励ましてくれたのに。でも今は娘を救ってやりたい、悪いけど無駄だこの子を救うのは無理だ…。
生き続けなければならない、そんなのは綺麗事だ。娘の痛みは痛い程解る、だって私の子だもの、私もこの子と同じように恋をして、今の夫に出会ったのだから。
夫や世間は私の考えに断固賛成はしないだろう…、でもっ!これだけ苦しんでいる娘を、
もう見たくないっ!
だから
ダカラ私ハ……。
湯煙の向こうからうっすらと見える血のついたナイフ。
「杏…、ゴメンね、今まで気付いてやれなくて。」
「う、あ……お、かあ…さん?」
そして私はナイフを手に取り…。
「今、ラクにしてあげる…。」
次回、25話に続く。