杞憂と偶然-2
「ほんと、大丈夫? 磯崎さん」
心配する言葉とは裏腹に、視線は彼女の一点に注がれていた。
しっとり汗ばむそれは、まるで張り付くよう露骨な形を浮かばせていた。
(こんな清らかなお嬢様でも汗をかいて、あそこが…… こんなに……)
そんな馬鹿げた想いを巡らせながら、自身の狡猾な行為に気付かれる前に、再び助け起こしベンチに座らせる。
横に座った僕の存在を無視するが如く、彼女はひたすら泣き続けていた。
どれ位の時間が経ったのであろう?
「あなた…… どうして…… わたしのこと(名前)を知っているの?」
不意に彼女はそう言った。
(はぁ……?)
一瞬あっけにとられる。
しかしここに来て、彼女が僕をクラスメイトである事すら認識していない事を思い知る。
「はっ、はははは……」
自然なまでに場違いな笑いがあふれでる。
「まいったなぁ、もう三ヵ月も経つと言うのに…… 僕は不易一文(ふえきかずふみ)、正真正銘君のクラスメイトのひとりさ。せめて顔と名字くらいは覚えて欲しいな、磯崎恵利子さん!」
少しでも場を和ませたくて、ちょっとオーバーな抑揚を付けおどけてみた。
「ごっ、ごめんなさい、私……」
それでもまだ彼女は、感情に思考が追い付いて無い様子であった。
こうして僕はこの日“憧れの彼女”こと、クラスメイトの磯崎恵利子と少なからず交流を持てる事になる。
この時の僕には恵利子の泣いていた理由を知る事も、恵利子の“心が壊れかけていた”事を窺い知る事は出来なかった。
「あの…… 良かったらメルアド教えてもらえないかな? その、なんて言うか…… クラスメイトとして…… と言うか……」
僕は勇気を振り絞り、恵利子にそう言っていた。
もしかしたら少々ろれつが回って無かったかもしれない。
口の中が乾き、喉がヒリつく程緊張した。
それでも…… 千載一遇の機会を逃す事は出来なかったのだ。
もしもこれが夏休み中の事でなかったなら、ここまで行動的にはなれなかったと思う。
明日も恵利子に学校で会えるなら、きっとこのまま別れこれをきっかけに地道に話しかける作戦に出ていたであろう。
しかし次に恵利子に学校で会えるのは、一ヶ月以上先である。
おそらくそれまでには……
それに学校では完全無欠の恵利子である。
当人にしてみれば、今日僕と共有してしまった時間は、どちらかと言えばさっさと忘れたい部類の事柄であろう。
「あの、私、携帯持って無いんです」
ドギマギする僕に、恵利子は至ってシンプルに、さもそれが当然である様に答えた。
「そっ、そなんだ」
僕はどもりながら、後悔した。
(やはり、いきなりメルアド教えてくれは、“姫”に対しハードルが高かったか…… 携帯持って無いって、無難な断り文句だよね)
僕は心中にて自問自答した。
「そ、それじゃ、気を付けて帰ってね。また学校で夏休み明けに」
なんとか、そう言うのが精一杯であった。
帰宅すると、何ともやりきれない虚しさがあった。
(恵利子、夏休み明けまで忘れないでくれると良いんだけど)
ベットの中、そう繰り返し呟きながら就寝した。
7月26日 翌朝
「聞こえてるの? 一文、電話よ。磯崎さんから電話よ、か・ず・ふ・み!」
微睡む意識の中、母親の声が階下より響いてくる。
そして僕は“磯崎”と言う名で、意識が覚醒させられる。
(えっ? 磯崎って、もしかして恵利子から電話?)
少なくても僕の交友関係に、今のところ“磯崎姓”は他に無かった。
(でも一体どうやって、自宅電を……?)
一瞬疑問に思うも、良く考えればクラスメイトである事を告げてある以上容易な事であった。クラスの連絡リストに当然の事ながら、自宅電話番号や住所が明記されているからだ。
その日の午後、僕は恵利子の家に“正式に招待”された。
もっとも招待を受けた相手は、恵利子の母親で電話をかけて来た当事者でもあった。
突然の事に僕の心は、得体の知れぬ期待と不安に押しつぶされそうであった。