第五章-1
浅草の「きのえ堂」は羊羹が名物の老舗であった。浅草寺に詣でる老若男女で店はいつも一杯であり、菓子司としての歴史、風格、そして商いのしたたかさも、竹村伊勢の及ぶところではなかった。
そんなきのえ堂の所行に、月汐は両の手を拳骨にして腹を立てていた。
「聞けば、ここで番頭だった金造が、白い煎餅の製法を持ち込んだ見返りに、きのえ堂の手代に収まったというではありいせんか。ああ、肝が煎れる」
竹村伊勢の店頭の畳敷きに座りもせず立腹しきりな月汐を目の前に、清右衛門は金造について考えを巡らせた。
『番頭だった男が手代という身分で我慢するとは思えぬ。手代だと給金も大きく下がり、店に住み込みとなり自宅には帰ることが出来ない。……だが、給金とは別に裏で大枚を貰ったかもしれないし、一年もせぬうちに二番番頭の口が用意されるかもしれない』
じっと考えている清右衛門に、月汐は声を荒げた。
「そうしてだんまりを決めこんでないで、早く大門わきの面番所へ駆け込みんしょうよ」
「面番所?」
「あすこには、お奉行所から与力や同心が出張ってきているでありんす。そこに訴え出るざんすよ、一刻も早く」
「いや……」清右衛門は片手を上げて息巻く花魁を制した。「町奉行所に訴えたとて、白煎餅を竹村で編み出したという確たる証(あかし)がなくては」
「作り方を書いたのがあるだろう。あれは清右衛門どの、あんたの手(文字)によるものだろうに」
「たしかに私が書いたが、あれには印鑑を押していなかった。印影がないと証としては取り上げてくれないだろう……」
「大事な書き物に判子を押してなかったってのかい。……大馬鹿野郎だな、てめえは!」
つい、乱暴な口調になる月汐。両手を振り上げ、振り向きざまに壁を叩いた。そんな彼女とは対照的に、清右衛門は感情を押し殺し、じっと考え込んだ。
月汐がさらに口汚くののしったが、竹村の主は、しばらく、岩になっていた。
やがて、硬くなっていた彼の肩から力が抜けた。何やらふっきれたような顔になって清右衛門は花魁の肩に手を置いた。
「此度(こたび)の一件は、この私の、主としての配慮、器量が足りなくて生じたもの。店を出た金造を今、どうこう言ったとて詮無きこと。加えて、きのえ堂が白煎餅を売り出したことにも、けちは付けられない……」
「じゃあ、このまま黙ってるってのかい?」
「いや、ただ黙するわけではないよ。……こちらでも、堂々と白煎餅を商いましょう」
「こっちでも売るってのかい?」
「ええ。かくなる上は競い合いです」と意気込んだものの、すぐに清右衛門の丸い肩が下がった。「ああ……、売る前に煎餅をこしらえなければならないが、白玉粉が手に入らないのだった……」
「手に入らないって……、どうしてだい?」
「おそらく、きのえ堂の差し金だろうが、ここいら一帯の米粉を扱う問屋には、白玉粉が全く無いのだよ」
「ここいらって……、深川の佐之助さんには当たってみたのかえ?」
「佐之助?」
「卯月庵の佐之助。あんたの幼馴染みだよ」
清右衛門は、しばらくポカンとしていたが、「ああっ」と言って肉付き豊かな手を打ち合わせた。
「あいつをすっかり忘れていた。深川だったら隅田川の向こうだ。きのえ堂の息の掛かっていない問屋もあるかもしれぬ。……さっそく佐之助のところへ行ってみよう」
清右衛門は畳まれていたのが引き起こされ、灯(あかり)をともされた提灯の心地だった。
それから二日後、竹村伊勢の店の奥には、白煎餅をこしらえる芳ばしい匂いが立ちこめていた。卯月庵の主、佐之助の口利きで何とか白玉粉を入手出来た清右衛門は、きのえ堂に臆することなく白煎餅を売り出そうと腕まくりをしていた。
その太い腕から月汐に手渡されたのが焼き上がったばかりの白煎餅だった。まだ温かいそれを、彼女は大事そうに懐紙に包み、昼見世で客の姿が見える久喜万字屋の上がり口を通り、すり足を速めて行灯部屋へと向かった。
「姐さん、入りんすよ」
言いながら襖を開け、腰を下ろす。昼の行灯部屋は小さな格子窓から、わずかだが光が差し込んでいた。
「月汐。……何だか嬉しそうだが、おまえ今日、昼見世は?」
「今日は声が掛かってないでありんす。それよりも、この煎餅を食べてみておくんなんし」
手渡された物を、ためつすがめつ紫月は見ていた。
「これ、どこの煎餅だい?」
「お向かいの竹村の新しい品でござりいす」
「……ふーん」
「早く囓ってみてくだしゃんせ。硬いことはありいせんから」
言われて紫月が、そっと歯を当てる。サクッというのが聞こえて、続いて咀嚼する音がしばらく続いた。
「いかがでありんす?」
「……何だえ、この煎餅。わっちでも楽に食べられるねえ。……それに、めっぽう甘いこと……」
腫れ物のある紫月の顔がほころんだ。じつに久しぶりの患いびとの笑顔だった。