そっと眠れる森の美少女のように-1
「よろしいではありませんか、霧生さん」
背後から透き通る様な優しさに包まれた声が…… それは忘れる事無い懐かしさ。
振り返えらずとも誰であるか分かったが、振り返る事の恐れが俺の仕草をぎこちなくさせる。
「れ…… あ、有栖川さん」
目の前の女性は麗しい程美しい気品に満ち溢れ、それでいて少女の様な清らかさはそのままに香らせていた。
十年前初めて目にした完成された絶世の美少女は、母親である“鳳子さん”のそれとは違う独自の進化を遂げ、再び俺の前に現れる。
いや、再び現れたのは“俺”のほうであって、“麗子”のほうでは無かった。
人は皆いつまでも子供のままでは居られぬ様に、別れと出逢いを繰り返していく。
俺にとってのそれは思いがけない程に唐突で、信じがたい程に現実離れした形でやって来た。
十年前…… 退学させられた愛佳が再び清華院に戻れたその日。
「お帰りなさい」
白亜が言った。
清華院の制服を着た愛佳が照れ笑いを浮かべる。
『おかえり』
麗子に可憐、俺たちは目配せをして言った。
「ただいま」
愛佳はせわしない仕草のあと、へにゃりと笑って言った。
庶民部の日常が戻ったと思われたその日、愛佳が清華院に帰って来たその日。
ある航空機が、太平洋上空で消息を絶つ。
それは決して公式に発表される事は無かったが、日本の上流階級中枢に激震を走らせる。
消息を絶ったのは九条家のプライベートジョット機、搭乗者は九条家次期当主九条一(くじょういつき)であった。
幼少期に面識も有りみゆきの兄である一(いつき)の不慮の事故は、後に少なからず俺を驚かせる事になる。
しかし本当の驚きが俺を襲うのは、その数週間後であった。
それは何の前触れも無く大空より舞い降りる。
清華院女学校に隣接する空港に、着陸限度ギリギリの航空機が着陸する。
九条家が所有する機体で、非公式ではあるがその構造等はエアフォースワンに酷似している。
俺、神楽坂公人(かぐらざかきみと)は、何の前触れも無く突如姿を消しほんの数時間前に戻って来た九条みゆきと共に居た。
数時間前、みゆきは沈痛な面持ちで姿を現した。
「…… お兄様」
そこには清華院メイド長の姿では無いみゆきの姿が有った。
仕立ての良いスーツに身を包んだ高貴な少女、そんな印象であった。
「みゆき、いったい今まで何処で何を? 何も言わず急に居なくなったんで、すごく心配していたんだ」
驚きと喜びの表情が入り混じる俺を余所に、みゆきの表情は心ここにあらずと言った感が窺える。
「お兄様 ……」
みゆきが重い口を開き、今日までに九条家で起きた事を語り始める。
それは本当のみゆきの兄である一(いつき)が、太平洋上空で消息を絶った事から始めり今日に至るまでの九条家の混乱。
家の格はともかく権力面においてあの有栖川家ですら霞む、九条家の次期当主が消息を絶ったのであれば、その混乱ぶりは庶民の俺であっても少なからず理解は出来た。
しかし困惑とも違うみゆきの深い憂いを秘めた表情の謎を知る為に、促されるままとてつもなく場違いであろう空間に足を踏み入れようとしていた。
もっとも俺が場違いな空間に身を置く事は、今日に始まった事では無い。
超お嬢様学校である清華院女学校に“庶民サンプル”として拉致られた時から、それはすでに始まり今日まで続いているのである。
「お兄様、この先何が起ころうとも決して感情に流されたりしないで下さい」
実の父親に会うというのに、みゆきの表情は今まで見た事も無い程に固かった。
そしてひどく抽象的であるが、俺に確認する様に念を押す。
それは到底航空機の機内とは思えない豪華さであり空間であった。
清華院に来て数ヶ月が経ちいろいろな事があった。
一例で言えば麗子のお母さんである有栖川鳳子(ありすがわほうこ)さんとの出会いである。
それは初対面から決して良い印象のものではなかったが、権力者オーラを知るという点では良いきっかけであった。
またその他諸々の出来事で少なからず、庶民である俺にとっての別世界に対する免疫が出来たとも思えていた。
本来はお嬢様たちに免疫を持たせる役目を担う俺に、上級階級に対しての免疫が出来たと自負するのも可笑しな話ではある。
それだけにこれから起きる事知る事にしても、みゆきが危惧する様な事が俺自身に起きるとも思えなかったのである。