第二章-1
世間様は桜に浮かれる季節、苦界と云われる吉原の各楼も内証花見と称して一日休むことがある。遊女がこぞって飛鳥山へ繰り出し、花のもと酒を酌み交わし、舞い踊り、日頃の憂さを晴らすのだ。
だが、独り月汐だけは見世に残っていた。それにはわけがあった。
巻煎餅の不味さを補おうと自ら砂糖をまぶしてたらふく食べたおかげで自害の気持ちが失せた彼女ではあったが、翌日になってみると菓子屋への不満がぶり返した。
「わちきに断りもなく巻煎餅の味を落とすとは何たること。ええい、肝が煎れる」
竹村伊勢が久喜万字屋と目と鼻の先だということもあり、月汐は昼日中、苛立ち紛れにさっそく怒鳴り込んだのである。
初めは手代が如才なく応対しようとしたが、大見世の傾城が色をなして怒気を発するため、番頭の金造が出てきて仁王立ちの女傑を店の奥へと招き入れた。
月汐は客間の厚い座布団に膝を沈めると、目の前にかしこまって座る初老の番頭に向かいあらためて口を開いた。
「竹村伊勢ともあろう菓子司が名代の巻煎餅の味を落とすとは何事だえ。こう、番頭、返事をしな」
手代への叱責で勢いづいているため語調は荒い。
「味が落ちたと申されましたか。……はて、別段、製法は変えておりませぬが」
番頭は眠っているような分厚い瞼の奥から傾城を見つめる。
「わっちの舌を馬鹿の剥き身にするんじゃないよ。砂糖を惜しんでこしらえてるだろう」
「それは異な事。惜しむなどとはとんでもございません」
「空とぼけると承知しないよ。閨(ねや)の技と菓子の味見なら誰にも負けないんだ」
「とぼけるも何も、身に覚えのないことでござりますれば」
番頭は顎を引いて、じぃっと見つめ返す。
「いやもう、こりゃあ呆れ切った痴漢(とんちき)めだ」
声の調子を二上がりにして月汐は食ってかかったが、年季の入った金造は柿渋を塗ったような顔色に朱をさすこともなく舌鋒をかわしていた。が、寄り合いの刻限が近づいてきたこともあり、そろそろこの煩方(うるさがた)を追い返そうと片手を挙げた。
「月汐花魁、そこまで言いなさるのなら、本来の巻煎餅なるものを見せてもらいたいですな」
「え?」
「花魁のおっしゃる味の巻煎餅を手に取って、口に運んでみたいものでございますな」
「……分かったよ。わっちが作って食べさせてやる。てめえの化けの皮をひん剥いて、けち助の正体を暴いてやるから、覚えていやがれ」
伝法な捨てぜりふを発した挙げ句、月汐が巻煎餅をこしらえるはめになったのである。
皆が飛鳥山で羽を伸ばしている時、月汐は妓楼の広い台所の片隅、暗がりでぽつねんと思案投げ首をしていた。料理番の悟助が心配そうにしゃがみこみ、白髪頭を近づける。
「くよくよしてねえでこしらえてみたらどうですかい、巻煎餅。あっしも手伝いますぜ」
「おかたじけでござんすが、道具がないんだよ。煎餅を焼くには焼型が要るっていうだろう。道具もないのに、うっかり安請け合いしちまって……。ああ、どうすりゃいいんだろ」
溜息をつく月汐だが、悟助は炒り豆用の平たい鍋を持ち出してきて、
「うどん粉と砂糖を水で溶き、この鍋に蓋をして焼けば煎餅が出来ると思いますぜ。べつに焼型なんぞ要りやせん」
「そうなのかえ。悟助は物知りだねえ」
月汐が笑顔を向ける。登楼する男どもの心をつかんで離さない評判の笑みである。
「さっそく焼いてみておくれ」
傾城の頼みに悟助は腕まくりをし、くたびれた肘を叩いて気合いを入れた。
浅草寺が夕七ツ(午後四時頃)の鐘を響かせた。もうじき花見に出かけた女郎たちが帰ってくる頃だ。久喜万字屋の台所では悟助と月汐の悪戦苦闘の跡が転がっていた。生焼けの煎餅から黒焦げのものまで様々である。
「花魁、もう白砂糖が底を尽きそうですぜ」
鉢に入った水溶きうどん粉へ砂糖を混ぜながら悟助が心配そうな声をあげた。
「わっちが金を払うから明日たんまりと仕入れたらいいさ」
料理番に代わって鍋を火にかける月汐の顔は汗と煤で汚れている。
「払うって……花魁、それじゃあ妓楼(ここ)への借財がかさむいっぽうですぜ」
「悟助が心配することじゃあないよ」
「へえ、そりゃそうですがね」
鍋の加減を見る月汐を眺めながら悟助は目尻の皺を深めた。
『普段から変わり者の花魁だとは思っていたが、今日はせっかくの花見もそっちのけで煎餅作りに励んでいる。初めはあっしにやらせてみたが、そのうち自分で焼きに挑み、今はもう鍋を離さない。奇特な上臈もいたもんだ』
「おや、今度は上手くいきそうじゃないかえ。ほれ、このように」
鍋を火から下ろし、悟助に見せる。
「こりゃあいい塩梅に焼けてますねえ」
「そうだろう。わっちもまんざら……」
「でも花魁、これではただの瓦煎餅ですぜ。巻かれてないといけやせん」
「おお、そうだよ。これをこう……、熱っ」
焼けた煎餅を俎板に移し巻こうとしたが少し曲がっただけで割れてしまった。
「花魁、もう、煎餅の種がありやせん」
悟助が鉢を逆さに振って見せると、妓楼の入り口のほうで、がやがや話し声が立ち始めた。束の間の放生会(ほうじょうえ)から戻った遊女らである。遣手のお滝が早く入るようにせき立てている。
「悟助、今日はこれで仕舞じゃ。有難山(ありがたやま)でござんした」
お滝の目に触れる前に手元を片付ける月汐だった。