第二章-3
さて、月汐である。彼女はあれからも暇をみつけては巻煎餅作りに励んだが、遣手や妓楼の内儀に気づかれ、
「昼三ともあろう者が煎餅作りとは何事だえ。そんな暇があったら、馴染みにあてて文をせっせと書いて、吉原(ここ)へ足を運ぶよう口説くんだよ」
二人から異口同音にたしなめられた。
それでも、どうにかこうにか満足のいく巻煎餅が出来上がったのは、桜も散り、時鳥(ほととぎす)の声が遊廓の空を素早くかすめる頃だった。
「さあ、菓子司の番頭どん、お待たせしいした。これが、わっちのこしらえた巻煎餅でござりいす。ご賞味くだんせ」
暖簾を出したばかりの竹村伊勢の店先。季節を映して菖蒲を活けた鉢の置かれた畳敷きに月汐が菓子盆を置いた。付き添いで番頭新造の九重が後ろに控えている。番頭の金造は口論の末の約束事を忘れていたが、目の前の手製菓子を見て表情を動かした。
『思い出した。あの巻煎餅の一件か……。なるほど、大見世の高級遊女は意地があるわい。いったん口にしたことは反故にはせぬ。これは少々見くびっておった』
月汐主従を店の奥へ招き入れると、金造は小僧に命じて茶を淹れさせた。そこへ、店の主(あるじ)の清右衛門が姿を現した。月汐が彼と顔を合わせるのはこれが初めてであったが、彼女は九重に身体を寄せ、囁いた。
「あの顔、旭饅頭みたようだ」
傾城の抱いた素直な印象である。四十を越えた清右衛門であったが、血色よく肥えているため、皺のない顔は薄紅色を帯び、たしかに生臙脂(しょうえんじ)で彩色された旭饅頭を彷彿させる容貌だった。
「これは月汐花魁、ようこそおいでくださりました。主の清右衛門でございます」旭饅頭が挨拶をした。男にしては甲高い声である。「御高名はかねがね承っておりましたが、間近で尊顔を拝するのはこれが初めて。以後よろしくお頼み申します」
月汐が鷹揚に挨拶を返すと、
「いや、手前、しばらく上方(かみがた)に参っており昨日戻ったのでございますが、こうして江戸の女性(にょしょう)を目にしますと、やはり何ですな、意気なものでございますなあ。あちらの女子(おなご)も美しいが、張りというものが稀薄に思われます」
上方商人顔負けの流暢な物言いだと月汐は目を丸くしたが、九重ともども即座に愛想笑いで返した。
傾城が持ち込んだ菓子について金造が事の顛末を主人に話すと、脳天から抜けるような甲走った笑い声がした。見ると清右衛門が破顔し、せり出した腹を盛んに揺すっている。なかなか止まない笑いに月汐が柳眉を顰めると、
「いや、これは失礼をばいたしました。これが本来の甘さだとおっしゃる花魁自らの巻煎餅、有り難く頂戴いたしましょう」
太い腕が盆に伸び、月汐苦心の作をつまみ上げた。軽く目を閉じ、上品に端を囓る。小さく噛む音が続いた。もう一口、さらに噛む。やがて半眼となり、残る煎餅を一気に頬張り噛み砕いた。
「いや、これは」茶を含んでひと呼吸置く。「これは驚きましたな。じつに甘い。さぞや砂糖を奢ったことでございましょう」
月汐は心の中で相好を崩した。しかし、清右衛門が首を傾げる。
「甘みの素は……、三盆ではありませぬな。いや、和三盆は手前どもでも高くて手が出ませぬ。といって上白糖でもない様子。これは花魁、太白糖でございますね」
茶碗を置き、下から見上げる菓子司の主に、月汐は長い睫毛を瞬いた。どうやら白砂糖の等級を言っているらしいが、彼女にはさっぱり分からなかった。
「これ、金造、手前どもの巻煎餅をこれへ」
主に言われ番頭が三本ほど小皿に載せて持ってきた。一本を取り上げ、清右衛門が口に入れる。
「ああ、花魁も、お付きのかたもどうぞお召し上がりくださいまし」
遠慮がちに手にし、ひと口囓った月汐の顔へ微かな影が差した。
『やっぱり甘さが足りない。粉っぽい』
御簾紙(みすがみ)を取り出し唇を押さえたが、九重は何事もなく口を動かしている。清右衛門が番頭を振り返り低く言った。
「金造、しばらく席を外しておくれ」
番頭が会釈して下がったのを見届けると、清右衛門は畳に軽く両手をついた。
「恐れ入りましてございます」深々と一礼した後、目を瞠って言葉を続けた。「花魁は驚くべき舌をお持ちでございますな。この巻煎餅、ほんの僅かではございますが砂糖の分量が確かに減っております」
九重がそうかしらと首を傾げているわきで月汐が清右衛門の目を見て頷いた。
「手前が上方に参っておった半年、その間に味が変わってしまったようでございます。いやいや、よくぞ御指摘くださいました。このままでは舌の肥えた客が竹村伊勢を見限るのは明らか……。御礼申し上げます」
清右衛門の素直な態度に感心した月汐ではあったが、
「角店(かどみせ)の主ともあろう者が己の菓子の味見もせぬとは、情けなくはありいせんかえ」
わざときつい言葉を投げてみた。