僕をソノ気にさせる-30
「……あ、そ。じゃ、戻るわ。俺……」
智樹が手すりを離れて歩き始めた。だがデッキ中央で振り返ると、「なぁ」
背中に呼びかけられる。「そんなこと言うために来たんじゃなかったよ。……婆ちゃん、楽しそうにしてるわ。杏奈が来てくれたからだろうな。ありがとうな」
返事をしない杏奈に礼を言った。
「婆ちゃんだけじゃない。優も、だな。姉ちゃんが感心してたよ。優の変わりようにさ。お前ってやつは、やっぱスゲェな」
そう言って足音がデッキから遠ざかっていった。
杏奈は人工的な灯りから目を離し、空に広がるている星の光と、その中で一際輝いている月を見上げた。
（もうダメだな。ホメられてもそんなに嬉しくない）
二年も好きだったのに、半年も持たなかった、だが涙が溢れてこず、胸も重苦しくならない。代わりに「これで優也とキスしてもいい？」という囁きが耳元に去来して、慌てて耳を塞いた。一体自分は何を考えているのだろう。
杏奈が戻ると、祖母がそろそろ休むと言い出した。体の調子でも悪いのかと杏奈が心配すると、
「違いますよ。いつもはもう寝てる時間ですからね。老人は寝るのが早いんですよ。……あんたたち、いい加減して寝なさいよ。特に智樹、あんた明日運転するんだろ？」
そう言って立ち上がる。
「じゃ、私もそろそろ休みます」
「先生はもうちょっとお楽しみになって」
「いえ……、私もちょっと疲れちゃいまして。ビール飲んだからかなぁ」
杏奈は暗みを進む祖母を先導してコテージに入った。祖母が先にシャワーに入っている間に化粧を落とす。祖母と入れ替わり水圧の低いシャワーを浴びた。湯を顔からかぶっても、全く涙が流れてこない。どうしちゃったんだろうなぁ、と思いながらシャワールームを出ると、祖母は既に寝間着姿でベッドに座っていた。
「電気、消してもいいかしら？」
「あ、はい、消します」
点灯か消灯しかない電気を消すと、部屋の中は深い闇になったが、目が慣れてくると窓から仄かに入ってくる月明かりが薄暗く中を照らしていた。ベッドに入り、仰向けに天井を仰いだ。風の音の中に遠くから蛙の鳴き声が聞こえてくる。
「おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
「あ、須藤先生」
と言われて、ベッドから起き上がろうとすると、「いえ、そのままで」と聞こえてきた。
「……今日は、ありがとうございました。あんな失礼な姉弟のために」
「いえ、そんな……」
「優也も俊彦さんとたくさん喋ってました……。あんなに初対面の人と話せるようになるなんて、先生が来るまでは考えられませんでしたわ」
智樹と同じ礼を言われて、
「私は何も……。優くん自身が頑張ってるからです」
と天井に向かって答えた。油断すると天井の中に優也の顔が浮かんでくる。
「……いえ、先生のおかげですよ。私、優也の母親も父親もいなくなって、しかも学校であんなにむごい目にあったあの子を、あそこまで笑わせることはできませんでした」
「……」
「先生がいてくださると、とても安心できます」
「こちらこそ、……ありがとうございます。色々良くしてくださって」
「何もしてませんよ」
祖母のコロコロとした笑い声が聞こえてきた。「お爺さんは義理堅い人でしたからね。今のままだと叱られますわ。皆には内緒ですけど……、最近、お爺さんがちょっと恋しくてね。優也と暮らし始めてから、あまり思い出さなかったんですけどねぇ……。先生のお陰で気持ちに余裕ができたからかしら」
「そんな……。でも、素敵ですね。お爺様にもお会いしてみたかったです。……お婆ちゃんをここまでメロメロにする人ですから」
「ええ、それはもう、イイオトコでしたよ」
今度は二人で笑った。ああ眠い、おやすみなさい、という声が聞こえ、杏奈も挨拶をして瞼を閉じた。風の音は相変わらず凄く、絶えず窓から聞こえてきていたが、やがてその音が遠くに去って行く……。
再び目を開けると、部屋の中にもう一つ寝息が加わっていた。身を起こすと最後のベッドに美智子が飲んでた時の姿のまま突っ伏していた。寝姿まで豪快なのにふきだして、ベッド横の時計を見た。三時を越えていた。仰向けになってもう一度目を閉じる。だが再びの眠りはやって来なかった。暫くして杏奈は静かにベッドを抜け、音を立てないようにドアを開けて外へ出た。
デッキの手すりに手をかける。月明かりの弱い光の中見下ろすと、バーベキュー台の周りは誰もおらず、椅子だけが寂しく並んでいた。
ここで私、何してるんだろうな。
今日は美智子と婚約者が、祖母へ初顔合わせの日だった。その中に混ざり、感謝されている。そこまで感謝されるようなことをしていない、むしろ裏切るようなことをしているのに。
「先生」