僕をソノ気にさせる-24
「ね、もうちょっとだけ。……行きたいところがあるんだ」
「え……」
了解を待たず、杏奈が優也の手を握って地下鉄を降りた。初めて触れる杏奈の体温の低い手に引かれて、神保町の乗り換え口で言われるままに切符を渡し、杏奈が駅員に都営線に乗り換えたいと告げると、代わりの切符が渡された。三田線は空いていて、並んで座ることができた。しかし杏奈はまだ優也の手を引いたままだった。Ｔシャツにジーンズ姿の中学生が、大人っぽい姿の杏奈と手を繋いで座っている。周囲の目線が気になったが、優也にはその手をふり切ることはできなかった。
「……どこいくの？」
「いいとこ。そんな遠くないから」
杏奈の言葉通り、程なくして手を引かれたまま降りたのは御成門だった。精算機を通した切符で改札の外に出ると、待っていた杏奈は優也の手を取って再び繋いできた。日比谷通りに面した出口を上がると、ホテルの向こうに東京タワーが聳えていた。
「んー、まだちょっとライト点いてないなー。こうやって近くで見るとすっごいキレイなんだよ」
東京タワーは昼間に遠くからしか見たことがなく、近くまで来たのは初めてだった。
「優くん」
杏奈は手を繋いでいたから、優也の贈った紙袋を持ったままのもう一方の手で日比谷通りの反対側を指さした。「あそこに建物あるでしょ？ あれ、私がいつも行ってるとこだよ」
「Ｋ大？」
「そう」
「え？ だって、Ｋ大は三田ってところにあるってお婆ちゃんが言ってたよ」
「いろんなところにいっぱいあるんだ。学部ごとに別れてんの。私は、あそこ」
「Ｋ大を見せにきてくれたの？」
「ちがうよ」
あっさり言った杏奈はホテルの緑沿いに優也を引いていって、途中の小路から敷地内へ入って行った。木々が少し開けて整地された場所に一つだけベンチが置かれていた。
「座ろ」
先に座った杏奈が優也を促し、隣に座るのと見届けると、ふー、と息をついた。
「この場所好きなんだ。なんかねー、ここからタワー見てるのが」
優也の方を向いてにっこり微笑んで、「もうちょっと経ったら蚊がいるからダメだけどね」
優也は正面の景色を見た。ホテルと増上寺の間に東京タワーがまっすぐ立っている。もっといいアングルがありそうな気がしたが、日比谷通りの喧騒から少し離れたこの場所は確かに静かで、一人が好きな優也の好みにも合う場所だった。
「優くんは家から近いスカイツリー派かもしれないけど、私は断然、東京タワー派なんだよね。あの鉄骨むき出しの無骨な感じ？ スカイツリーみたいにシュッと澄ましてない、どっしり足構えて、おりゃっ、て立ってる気がするじゃん？ しかも色は燃える赤！」
「東京タワー派とかスカイツリー派とか考えたことないよ」
杏奈の表現に、優也は憂鬱をいっとき忘れて笑ってしまった。
「……ねー、優くん」
杏奈はミニスカートから伸びる脚をまっすぐ揃えて伸ばし、踵を地面に付けたサンダルのつま先を見つめて言った。「……寝てる女の人に、勝手にチューしたらダメなんだよ？」
せっかく訪れかけた心の平穏が、杏奈の一言で全て消失した。杏奈に握られる手が力なく緩む。
キスしたことを知っていた。もう終わりだ。
「ご、ごめんなさい……」
瞼が熱く潤んできそうになったが、もしこのまま終わりだとしても、杏奈に謝らなければならないという思いが、消え入りそうになる小さな声で何とか言葉になった。
「なんでキスしたの？」
「……」
何故してしまったんだろう。勃起して、薄汚い欲情をぶつけてしまったという自己嫌悪と激しい後悔が優也を襲った。
「好きな人とじゃないと、キスしたらダメなんだよ？」
「……うん」
「うん、じゃ、わかんないよ」
「……うん」
だからだよ、と叫びたかった。
――沈黙による静寂が続いたのち、涙をこらえて優也が口を開いた。
「……先生は、起きてたの？」
「ううん、寝てたよ。チューされて起きた」
「なんで、その時怒らなかったの？」
「……う〜ん」
杏奈は眉を寄せて考えてから、「怒る必要がなかったから？ 『よし、怒ろう！』って思って怒るものじゃないでしょ？」
「……先生」
「うん？」
「先生は、智樹兄ちゃんと付き合ってるの？」
「何でそんなこと気になるの？」
杏奈は脚を伸ばしたままの姿勢で優也を見たが、優也は東京タワーを向いたままだった。涙を堪えようとしているために、睫毛がずっと震えていた。
「……付き合ってるよ。智樹お兄ちゃんは……、智樹は、カレシ」
気づいていたからショックは大きくない。だが杏奈の口から、その声で「智樹」と呼び捨てにするのを聞くのは堪らなく悲しかった。
「……カレシがいるなら、怒らなきゃダメじゃん」
「『怒ろう』って思わなかったんだから、仕方ないって」