僕をソノ気にさせる-10
優也はこんなことで何故かはしゃいでいる杏奈を不思議そうな目で見つつ、そうだよ、と言った。
「へー、カポー……、ティ? さんが書いたんだ。っていうか小説だったんだねー、知らなかった。だいたいの女の子は『ローマの休日』派なんだけど、私は断然『ティファニー』派なんだよねぇ」
「……そ、そうなんだ」
「ねぇ、それ、読んだら貸して」
「え?」
「優也くんがそれ読んだ後でいいから。私も読むの」
「あー……」優也はもう一度表紙を見せて、「『ティファニーで朝食を』は、この巻に入ってない。たぶん次の巻」
「じゃ、優也くんが次の巻を読んだら借りる。……次の巻読み終わるとしたらいつごろ?」
「……」優也は少し首を傾げて見積もった後、「3日後くらい?」
「えっ! ……痛いっ……」と、身を仰け反らせようとした杏奈だったが、不自然に横座りに崩れた。「……いたた……。びっくり……、そんなすぐ読めちゃうの? そんなに分厚いのに?」
「どうしたの?」
「……足、しびれた……。ずっと正座してたから」
足を握って目を閉じて顔をしかめる杏奈を見て、無表情だった優也がぷっとふき出した。
「ねぇ、本もいいけどさ……、いたた、マジ痛い。なにこれ……」
杏奈は片目だけ何とか開けて優也を見ると、「算数、嫌いなの?」
優也の顔から笑みが消えた。
「好きじゃない」
「えー? 算数も面白いよ。『ティファニー』みたく」
「そんなわけないよ」
「そんなわけあるよ。……ねえ、何で嫌いになったの?」
「面白くないから」
「何で面白くないの? ……ねー、私にちょっと教えてよー。……足しびれてるからさぁ、私の気を逸らすために。いたた……」
優也は足をさすっている杏奈を一瞥して、暫く考えた後に言った。
「……ストーリーがないもん」
「ストーリー? 何だそれは」
「算数の問題、……ストーリーがないじゃん。足すとかさ、引くとかさ。エックスとかワイとかどうでもいい」
二人を見守っていた祖母は驚いていた。優也が会ったばかりの人と会話をしている。最近では血縁にだって、うん、という返事しかしないことが多いのに、少しの間に優也が自分の考えを人に話しているのだ。
「おー、そういうことか! 確かに小説はストーリーがあるからねぇ……。よいしょっ」
崩れていた杏奈は再び正座をして身を起こすと、「数学……、算数ってのは、それまで習ったことをちゃんと憶えてないと問題解けないようになってるからねー」
「無理して正座しなくていいよ」
「だいじょうぶっ。でもさー、算数って、あれがああだから、それがそうなって、だから、これがこうなる、って感じでしょ? なんかストーリーっぽくない?」
「どこが……。そうだとしても、途中でわかんなくなっちゃったんだから、先のストーリーもわかんないじゃん」
「おー、途中でわかんなくなっちゃったかぁ。……ほら、アレでしょ? 分数の、約分」
「ソレは何となく……、わかるはず」
「ああ、そりゃ失敬」
杏奈は鼻筋に手のひらを立ててウインクして、「じゃ、アレだ。分数の割り算でしょ? あれねー、どう考えても算数の最大の関門だよねー」
「……」
優也は図星を突かれ、中学生の歳になっても分数の割り算が理解できていないことが恥ずかしくなって、本を閉じて頬を紅潮させると、湯呑へ目線を落とした。
「割る方を逆数……、分母と分子入れ替えてさ、掛けるんです、ってねぇ。何だソレは、っていう感じでしょ。――でもさ、私、入れ替えずにやる方法知ってますぜ?」
えっ、と驚いた表情で再び優也が杏奈を見た。杏奈は得意げな流し目を優也に向けて、テーブルの上にあった、お茶受けの饅頭を引き寄せた。
「んっとねー、お饅頭を半分にすると……」刺し串で饅頭を半分にし、「これが2分の1じゃん?」
「……」
優也は本を傍らに置いて、杏奈の様子を見守っている。
「んで、これを更に半分にすると……」
と杏奈は更に割った。扇型の欠片が四つできる。「これってさ、四つのうちの二つ、ってば、もともとの2分の1と同じでしょ? 4分の2。だから4分の2と、2分の1は同じ。コレが約分。ここまではいーんだよね?」
祖母の前でありながら、テーブルに肘をついて顎を乗せ、もう一方の手で持った串の先で饅頭を突ついて話す。その態度も、家に来た当初は嫌悪を覚えた指先の華やかなネイルも気にならず、祖母も優也と一緒になって饅頭に見入っていた。
「これってさ、2分の1の分母と分子に同じ数、この場合は2だよね、それを掛けて4分の2にしても同じってことじゃん? 約分の逆をしてるってことね、これ。……さて、以上を踏まえてですなぁ、2分の1割る8分の3はいくつだい? ……って言われても、お饅頭ではムズい。なのでコレはこの問題が解けたら、優也くんにてお召し上がりください」