タナトスの黒霧-4
４
「俺は君のことを好きになろうとしてきた。もし、好きしなったらどうするだろうって考えて行動してきたつもりだ」
剛志は静にそう言うと、自分の革ベルトで寝室の床を打った。派手な音に静がビクッと身を震わせた。
潤子は自殺する前に静との間に何があったのかを一部始終、たどたどしい言葉を、何度も震える手を必死に何度も押さえ、唇を噛みしめながら手紙に書いて投函していたのだった。
手紙に残る涙の痕跡と「剛志愛してる、ごめんね」と最後に書いてあったのを見たとき、剛志は静を殺して復讐をして、自分も死のうと決めた。
全裸の静は、潤子の撮影に使った首輪や手枷で拘束されていた。
剛志は姉を凌辱したビデオを見つけ出すと、暗く沈んだ目で映像を見つめていた。
潤子の母親はなぜ裕福な暮らしを捨て、ソープ嬢までして潤子を育てたのか。子供がいても、風俗嬢でもかまわないと通いつめた客と再婚したのか。
剛志はその秘密を知っていた。
父親の書斎で見つけた一枚の写真は、十七歳の剛志にとって、衝撃だった。
潤子に似た女性が手拭いで猿ぐつわをされ、荒縄で亀甲縛りにされて床に転がされていた。潤子と同じ瑞々しい白桃のような乳房を突き出させている痛々しいほど固く締め上げられている荒縄。ほっそりとした柔媚なうなじ。
尻は激しく平手で打たれたのだろう。赤らんだ尻の震えすら伝わってきそうな生々しい写真だった。
剛志はその夜、姉の潤子に夜這いをかけた。
剛志の父親は嗜虐の性癖を持つ男だった。
ビデオの映像を見て剛志は思い出す。
あの夜、潤子が姉だと知りつつ、激しく欲情して寝室で寝ている潤子と、写真の女と重ね合わせながら処女を奪った時の興奮を。
父親、いや、あの男の嗜虐の血が自分にも流れていて誰かを愛することが、同時に拷問のような行為を加えることでしかありえないと剛志は感じた。
破瓜の痛みに苦悶の表情を浮かべた潤子と血にまみれた自分の性器。
それからは自分があの男と同じように潤子をいつか責め抜いて、潤子の母親がそうしたように離れていくのではないかという不安が常に心にあった。
剛志は、自分のかわりに静が潤子を奴隷のような姿にさせた、自分の認めようとせず隠してきた嗜虐の血がそうさせたのだと思った。
剛志は革ベルトを静に容赦なく降り下ろした。
打たれた静の柔肌が腫れて、さらに裂けて血を滲ませているのを見つめた。
「剛志のお姉さんを虐めたのは悪かったわよ、ねぇ、もう許して」
静は潤子の復讐を剛志がしようとしていると考えて懇願する。
剛志の中で何かが炸裂した。
静の髪を剛志はつかんで顔を上げさせると、つばを吐きかけた。
「潤子は俺の奴隷だった。静、馴れ馴れしく名前で呼ぶな。これからは御主人様と呼ぶんだ。わかったな」
剛志はもう黒霧に包まれていなかった。黒霧を取り込んでしまった。
背中側で手首を拘束されて、首輪をつけられた静に剛志は囁いた。
「静、結婚しよう。お前は俺のものだ」
剛志はベルトで打ちすえた傷にキスをして、血のついた唇で静の唇を奪った。
唇をふさがれ呻いている静を、もし斗真が見れば黒霧が静を包み込んでいるのが見えただろう。
剛志は静の内腿を撫でながら言った。
「静、お前の肌には刺青が似合う。絶対だ。ここに小さな蝶を彫ってもらう。忠誠の証だよ。それを見るたびに離れていてもお前は俺を思い出すんだ」
剛志には潤子の母親の写真が脳に焼きついたように離れない。潤子の母親の左胸の乳房に、色鮮やかな揚羽蝶が彫られていた。
あの男は、潤子の母親とよく似た刺青を刻んだ静を見せつけたらどんな顔をするだろうか、と剛志は思い浮かべ目を細めて歪んだ笑みを浮かべた。
その笑みは静が見たことのない笑みであった。
潤子は剛志の嗜虐の血を身を持って知っていた。
黒霧、またはタナトス。絶望。
こうも陰惨な挿話ばかり書き続けているとこちらまで気が滅入る。霧野斗真について書き続けるということは、救いがない世界の物語を書き連ねるのに等しいと自覚している。
神も悪魔も信じない僕でさえ、祈りの言葉を彼らのために捧げたい衝動にかられる。
霧野斗真が魂が焼ききれるほどの絶望を見続け、それを母親の真理との快楽で癒されている頃、僕はまだ存在していなかった。
全ての物語は過去から現在に向かって流れている。過去には取り返しのつかないあらゆるものがある。記憶するものがいなくなれば、たやすく消え去るだけだ。
真理は頬を紅潮させて、あの時のことを思い出す。そして少女のように胸をときめかせる。真理は長い睫毛を伏せて語るだろう。
斗真にとって母親の私が必要だったかもしれない、でも私にとって斗真が必要だったのよ。
世界に何が起こっていたのか、本当のところは僕だってわからない。僕は世界に耳をすますように、想像して失われた時を感じ取ろうとする。
君は誰に囁かれ、胸をときめかせ、誰を懐かしんで頬を染めるのだろう。
匿名のままで、誰も他人の話などに耳を傾けることのないネット上のざわめきの中で、君は過去の日々を懐かしみ、ベットでの心地よい気だるさのあとで君は僕に思い出しながら語ることがある。僕はその断片を拾い集めているだけなのかもしれない。
僕が誰なのか。君はもう考えなくてもいいとキスをしてくれる。僕も坑精神薬やセラピストの誘導尋問と告白の儀式では僕が誰なのか、この空虚さを贖うことはできないと知っている。
救いがない世界の後日談を記しておく。
中年女性が入院して一年後に、病状が悪化して死去してしまった。それからまもなく猫を引き取った家は火事を出した。家族の中で、飼われていた猫以外は買い物に出かけていて無事だった。猫が、元の飼い主のあとを追って死んだというのは考えすぎかもしれない。
潤子は退院して、逮捕されたが初犯であるために執行猶予つきで留置場から出てきた。その後、民間の薬物依存症リハビリ施設で治療を受けていたが自殺した。
終