継続と介入と-1
翌朝早く八時過ぎにレナータは現れた。緑川ははっきりした頭でレナータを迎えた。抱きしめるだけに留め、緑川は新しい本をレナータに与えた。緑川はなぜか心身ともに非常な疲れを感じていた。
おじさん、駄目だよとレナータは言い、スカートのホックを外して緑川を抱きしめた。緑川は、いつでもこの子を抱けることを心に感じて楽になった。レナータは積極的にそれを証明してみせた。
九時過ぎに呼び鈴が鳴った。ズザンナの声を聞いたレナータがドアを開けた。緑川は疲れた体で寝ていたが、二人は緑川を起こして、皆で礼拝に行った。
礼拝が終わって帰ってくると、レナータはズザンナの家に呼ばれていった。事情を察しているズザンナは、緑川には、あとで行くから安心して眠ってくださいと伝えてあった。その言葉通り緑川は眠りこけた。
ズザンナの家では、レナータをめぐっての話し合いが進められていた。真面目なカトリック信者の両親は、レナータの母の、親としての立場を尊重しつつも、とりあえずは児童相談所に行くことを提案した。レナータに異存は何もなかった。更に、裁判に持ち込むことも辞さないつもりでレナータの側に立とうと言った。実業家の藤原には、緑川にはまるでない胆力があった。考えるだけで実行の伴わない緑川と違い、その言葉は豊かな経験と自信とに裏打ちされた威厳に満ちていた。ただお母さんのためによく祈ってあげなさいとズザンナの両親はレナータに伝え、藤原は家族でまずそれを行ってみせた。
レナータは、ここに自分はいてもいいのだと肌で感じた。しかし、緑川を放っておけなく思われ、おじさんが心配だから行ってみますと隣の部屋へ戻っていった。
ズザンナの両親は、緑川さんは動物や子供に好かれてちょっと聖フランチェスコに似ているのじゃないかと話して笑った。ズザンナも、うん、そっくりだと、仏教徒の緑川のことを受け合った。
レナータは緑川の布団から出ると裸のまま横に座り、緑川が早く元気になることを祈った。ついで、いやいやながらも、ズザンナたちが言うとおり、自分の母親の幸福を声に出して祈ってみた。
月曜日、きのう久しぶりに酒を飲まないで夜を過ごしたというのに、緑川の疲れは抜けていなかった。その日は出勤したのだったが、晩になっても疲れはひどく、しかも夜通し眠れなかった。そこで翌日会社を休んで医者に行ったところ、軽いうつ症状だと言われた。
もらってきた安定剤を飲むと、神経質な気分はぼんやりと麻痺したように治まった。何かに取り掛かる気にも外出する気にもなれず、一日部屋に緑川はいた。夜は睡眠薬を飲んで寝た。
疲れもだるさも変わらないばかりか、薬の副作用も翌日にはあった。それでも緑川は出勤し、帰りはどこにも寄らないで電車に乗った。そしてレナータに会った。レナータは緑川の隣に腰掛けた。ちょっと調子が悪いんだと緑川が言うと、レナータはあたしがいてあげるとすぐ答えて緑川の手を握った。しかし、緑川には、これまでのことが暗く思い返されて、この子のことは何とかなるのだろうか、そして今日もこれからも自分は罪を犯し続けるのかと考え、目をつぶった。レナータは緑川の頭を胸に抱いた。電車内ではおかしな行為のはずだったが、もうどうでもいいと緑川は思った。半袖の腋から漂うレナータのにおいに、緑川は少しだけ楽になった。
家に着いたら緑川は真っ先に横になった。服はレナータが脱がせてくれた。大人とは違う女の子のにおいが空腹を誘った。瞑目していた緑川が豆電球の薄暗がりに目を開けると、ただレナータのそれだけが視界に入り、またすっと楽になるのを感じた。緑川は、夕食はいらないと思った。
だいぶ経ったように思われた頃、呼び鈴が鳴り、ズザンナですと声がした。時計はまだ八時だった。緑川はレナータに服を着せて、出てもらった。
ズザンナは、父の用事で来たのだけれど、やっぱり自分が来てよかったと言って上がった。電気を点けていいかと聞くズザンナに、そうしてもらうと、赤いジャージ姿のズザンナが緑川に明るく印象的だった。それまで知らないことだったが、ズザンナは陸上部なのだそうだ。布団から起き上がろうとする裸の緑川をズザンナは手で止め、自分がそばに座った。
ズザンナは、あしたにでも父が話をしたいと言っていること、レナータの母親と、きのうおとといと長い電話のやり取りがあったことを緑川に告げた。緑川は話の前者に、レナータは後者に大きな不安を抱いた。
「何も心配しないでくださいね。」
そう言うと、ズザンナは緑川の額の辺りにそっと手を置いてから、電気を消して帰っていった。