誘惑者は内側に2-1
「お母さんが来るから帰ります。おふとんごめんなさい。今度、何かします。また洋服を借りていきます。レナータ」
昼ごろようやく起きた緑川がこんな置き手紙を見つけた。卓袱台の上にビールの缶が四つと、ワインのびんが一本転がって、そこにそれはあった。グラスが二つあり、ともに使った跡が残っていた。
まるで記憶にないことだった。少女も酒を飲んでいたことになる。
少女が持ってきた手提げ袋があった。中には、この前着ていった緑川の服が入っていた。
緑川は布団の汚れたシーツを外し、捨てようかと思って丸めはしたものの、惜しい気がしてそうできず、いつもの所へ放っておいた。少女の髪もたくさん抜けて落ちていた。残っている酔いからくる気分の悪さも手伝って、少女のにおいに食傷気味になっていたが、その髪を一本一本丁寧に拾い集めた。
したことの記憶がないとは一体どういう心の働きだろうか。それよりも、酒を飲んでいるとき、自分の行為をまともだと思っているのに、覚めてみると明らかに狂っているのはなぜなのだろうか。
ふと会社のことが気になった。しかし、確かに連絡したのを思い出して、緑川はシャワーを浴びに行った。自分の下着を脱いだとき、そこに少女の跡を見つけた。男にはない色だった。それを眺めつつ、少女は緑川のしたことに気づいているのだろうかと疑った。置き手紙にも、なんの非難の言葉もない。「今度」と先のことまで書いてある。少女の腰はまだ狭く、女の重さを備えていない。少女にふさわしい行為であるはずがなかった。
体を拭いた緑川は、そのまま部屋を掃除し、少女のものは全てごみ袋にまとめ、口を縛った。それから、少しフランス語の本を読んだのだが、結局ワインの栓を開け、休みを文字通り休むことにした。
翌日、もはや何ともなく健康な朝を迎えた緑川は、「あすは必ず行くけれども大事をとって」もう一日会社を休んだ。
少女は今晩の電車に乗ってくるだろうか。そもそも、少女はどこへ行っていてあの時間に乗ってくるのか。緑川はしらふで少女と話したことがなかったから、実際には何をしていても思い出しか残っていないのだった。確かにあるのは少女の汚れた服やいろいろな残り香だ。いつも持ち歩いている少女の下着も、全てほとんどにおわなくなってしまった。緑川は思い立ち、少女の下着を穿いてみた。不快に締め付けられて吐き気を催しそうになった。
天気がいいので表を少し歩こうと思った緑川がドアを開けて出たとたん、ズザンナが目に入った。ズザンナは自分の部屋のドアの両側にある植木鉢に水をやっていた。薄黄色の半袖のシャツに真っ白な長いスカートをはき、はだしのサンダル姿をしたズザンナは爽やかながら、その顔に疲れがあった。挨拶のあと、今日は創立記念日でお休みなのと自分で言い、どうぞとドアを開けてにっこりと緑川を招いた。この「どうぞ」が唐突だったので緑川は面食らった。しかし、散歩の方を優先させる理由など、もちろん無いに決まっていた。
ズザンナの部屋は赤やオレンジの小物が多く、明るい女の子らしい部屋だと緑川は思った。ポスターの類がない代わりに、十字架が壁にかかっていた。机の上にも聖家族の絵があった。暗く陰気な感じのする自分の部屋とはなんて違うのだろうと緑川は感嘆した。そして女の「善さ」を予感しもした。
ズザンナの両親は共働きなので、今日はズザンナだけであった。食事はどうするのかと緑川は聞いてみた。一緒に作って食べませんかとズザンナが答えた。人と食事をするのも好きでない緑川は、この言葉がとても暖かく胸にしみるのを不思議だと思った。用意してくれた紅茶を飲みながら、緑川はズザンナが話すままに、よく耳を傾けた。友達の悪口など一言もなかった。疲れて見えるのはなぜかと聞くと、たくさん出た宿題を昨晩全部してしまったのであまり寝ていないのだと言った。それでも朝は起きてお祈りをしたのだと言う。
まだ九時過ぎだった。二人はトランプをしたり、クイズなどをしていたが、緑川の方は不安になって、長くいてもいいのかと尋ねた。ズザンナは、緑川に用がないならずっといても構わないと答えた。この分け隔てのないズザンナの態度が緑川には恐れ多かった。もったいないとか、かたじけないとかいう昔の言葉が分かった気がした。やはり早く帰ろうと緑川は思った。しかし、食事を一緒に作るのに承諾してしまったことが胸にかかり、昼までは帰るべきではあるまいとも考えた。