日常-1
緑川の勤めているのは市内にある小さな出版社である。出版社の書店に対する営業は、どちらかといえば、書店と出版社とのあいだに立つ「取り次ぎ」が握っているとも言えた。出版社の意向より、書店からの「売れ筋」を取り次ぎ会社が統計的に集めて、それをまた書店に知らせることで、書店から出版社への注文が決まってくる。しかし、これに頼りすぎるとどこの書店にも同じ本が並ぶことになり、書店の独自性はなくなっていく。だから、「外回り」の人間の生の声を聞くのを喜ぶ書店もあったし、出張で遠くへ出向いた時など、重宝がってくれるところもあるのだった。けれども、殆どはすでに退職している前任者がおかしなことをしたか何かで、関係を損ねていた場合には、名刺さえ受け取ってくれない書店もあった。そういうところに緑川はまたよく当たった。
外回りが臨時注文と顔つなぎとを主としていれば、営業職のその時々の責任も水商売的で、注文が取れなければ上司に苦い顔をされるものの、多く取っても大して褒められるわけでもなかったから、知人の薬剤関係の営業に比べ、楽なものではあった。それでも緑川は、人間関係がいかに大切なものか身にしみていた。具体的に、相手との関係が数字に反映される。互いに個人としての本心でなく、利害を絡めた約束付きの、表面的な付き合いなのに、何かあれば本気で謝り、また感謝もする。自分とは何者なのか、また何のために日を送っているのか、それを思うと緑川は虚しくなるのだったが、誠実さを欠くつもりはなかった。そしてその誠実さで、断られても幾日かあとには相手に名刺を受け取らせ、高い注文を得たものだった。
勝ち抜く戦国武将などにではなく、義の奴隷として働いた殉教者たちに緑川は自分を近づけたく思った。しかし緑川は命を求め、仕事からそれを得ることはできなかった。会社の意向を自分の意志とするのも辛いことだった。そもそも、いつからか緑川にとって、生きていること自体がなにか重苦しいのだった。いのち、それは青空であり、自由に躍動する明るい元気さであるはずだった。
人生の重みが表れた大人の体をした女より、軽々とした少女の心身に緑川が憧れたのは当然だったろう。そしてズザンナは緑川の矛盾する理想をまるごと体現した少女だった。
ただ、日々の緑川の具体的な慰めとなったのは、例の少女が残した「においのする物」だった。嗅覚や味覚・触覚は、視覚や聴覚より直接人間の感覚に働きかける。実際、くだんの携帯電話の画像など、緑川はごくたまに見返す程度で、すぐに飽きた。しかし、少女のハンカチや下着・靴下は手放せないで、持ち歩いた。これまで生きてきた世の中に、これ以上緑川の心を慰めるものはまるでなかった。
知らない少女の体臭に頼り、知っているズザンナから充分な愛情を得られぬことに緑川は悩んだけれども、風俗に通い、読経をして、泥酔することのうちに、全てをないまぜにしてごまかした。だが、この数日に膨れ上がった自分の犯罪者意識は確実に緑川を蝕んでいた。