名前を忘れられた女に/蛇と苺 他-1
【蛇と苺】
深い虚脱の正午
汗と唾液まみれの
勃ったままの乳首
失われた時を求めて極度に熟する苺には
螺旋を描きながら絡みあうウロボロスの蛇が棲む
※『失われた時を求めて』マルセル・プルーストの長編小説
【海岸】
陶酔と白濁した精子のしたたり
漂流する
波間に揺れる小瓶
夜明けの砂浜で
女と少年が手をつないで歩く
永遠の愛を誓う
小瓶の中に少年が入れた約束
きっとわたしのことは忘れてしまうわ
女は少年の唇を奪ってから
潮風に目を細める少年の頬を撫でる
【イクラ】
帰らないで
裸で仰向けの女の私は目隠しされて
欲情したイクラの目の男に見つめられて
震えている少女のままでつぶやく
鮭は海に出ていずれ川に帰る
わかっているのに
【待ちきれなくて】
煙草と珈琲があれば生きていける
煙を吐き出す男の声がなつかしい
私の珈琲に砂糖とミルクを入れる男
毎朝かかさずカフェオレを飲む
フェラチオをして男の精液を飲む私
煙草の紫煙と飲み残した珈琲を
空と海のはざまに
つい待ちきれなくて捨てたことを
まだ後悔している
【やわらかな】
耳たぶに男の唇と舌がふれたとき
生温かい息を吐き出して
裸の男はもう一人の私だったから
ぎゅっと抱きしめた
バイブレーターもぎゅっと
牝の肉花でくわえこんだままで
すべてがもとのままなのに
裏返ってしまった世界で蕩ける
爪先までこわばらせながらふるえて
【あと何歩】
あと何歩でここから消えるのか
わからないまま歩きつづけるしかない
彼は草の匂いがする
彼は雨に濡れた仔犬の毛皮の匂いがする
彼は焼きたてのパンの匂いがする
匂いの比喩で男をつつみこむ
つつんでもつつみきれない波のゆらぎ
むだな動きにやすらいでいる
【投げ込む】
もがかずに波に沈むか確かめたくて
人形の私を海に投げ込む
海に投げ込まれたものは失われる
砂をさらう波は思いがけない力で
もうすぐ雨が降る匂いがする
柔らかい腹と揺さぶられる乳房に
汗が降ってくる
【おあずけ】
淫蕩な神も慈愛に満ちた悪魔もここにいる
いつからそこに立っているのと少女の私に聞かれ
思いだそうとするけれど
タクシーを待ちながら
男は今夜も人形の私を縛るだろう
会いたいと呼ばれて終電間際で部屋を出る
男が想像する別れの理由を剥奪せよ
従順な女を演じる私の夜の旅
少女の私はもう眠いとかなり不機嫌
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
シモーヌ・ド・ボーヴォワールはそう書いた
あとは「想像力の問題」なのだ
男を縛るのは
縛られている私だ
懺悔するのは世界が終わる瞬間までおあずけ
※「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」ボーヴォワール「第二の性」より引用
「想像力の問題」
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルの著作のタイトルより引用
【うっとりと】
男は恥じらう少女のように小声で囁く
縛られてみないか
破滅を賭ける賭博者の最後のコール
他に賭けるものがもう残っていないのだ
私はじっと眼をつぶる
「お前が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだ」
フリードリッヒ・ニーチェがそう書いた「深淵」とは沈黙と甘く苦く失われていく一瞬の快感のなまなましい感触
誰よりも美しい死体になるだろうと言いたげに
うっとりと縛られた私を見つめている男
賭けはまだ勝負がつきそうもない
※フリードリッヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」146節より抜粋、引用
【ちくり】
初めて絵本を読むように肌に指先を這わせる
くすぐったそうに身もだえする男の背中や尻にホクロを星座を見つけたように報告する少女の私は両手をひろげて
一日をともにすごすとゆるやかに欲情がきざし脚をひらくたびに女の私は決断している
「見つけた
永遠を
それは海
それは太陽」
フランス映画の台詞で、それは詩人アルチュール・ランボオの詩句でもあるのだが男がクリトリスに唇を近づけてキスするまでに思い浮かべてしまう
昨日は男のいた部屋に恋に悩む友を招き
せっぱつまった声とため息を聞きながら
姉になるの私の心臓がちくりと痛む
男の匂いの煙草の残り香に気づかれはしないかと
裸の私を部屋に残して離れれば夫で父親の男が服を着て出て行くので起き上がらずに拗ねて泣く
とにかく何かを食べようと窓とカーテンを開けるところからくりかえしている私に何を教えることができるというのか 妹よ!
※ジャンリュック・ゴダール映画「気狂いピエロ」
アルチュール・ランボオ、詩集「地獄の季節」の「飢餓」より抜粋