はめ殺し-3
「あの……、今のお礼と、昨日、自転車をぶつけたお詫びをしたいのですが……」
「いや、べつにいいよ」
「でも……」
「いいよ。浮浪者でも、たまにはいいことをするんだと思ってくれたら、それでいいさ」
「でも、それでは……」
二人が押し問答を繰り返していると、さっき逃げたと思った若者が戻ってきて浮浪者の前に立ちはだかり、ショル ダーバッグに手を入れた。瑞江は咄嗟にナイフを取り出すのでは、と焦ったが、若者がつかみ出したのは生卵の小さなパックだった。彼はバリ リっとプラスチック包装を素早く破ると、浮浪者めがけてパックを投げつけた。
「うわっ」
パックは浮浪者の頭に当たり、卵の黄身と白身がドロリと顔に垂れ、肩に滴った。
「こんちくしょう!」
浮浪者の怒声を尻目に、若者は脱兎のごとく逃げだし、買い物客の人混みの中へと消えていった。
「あーあ。ひでえな。どろどろだよ」
浮浪者が手で顔を拭う。卵は四個パックだったようだが、見事に四個とも割れ、浮浪者の頭、顔、上着を汚してい た。瑞江はハンカチを取り出して拭いてやったが、とてもそれでは間に合わなかった。
ここから先の瑞江の言動は、彼女自身、ちょっと信じられぬ積極的なものであった。
「その服、洗濯しますから、ちょっと家に来てもらえませんか? すぐ近くなので……」
と、浮浪者を家に誘った。
「洗濯なんていいよ。どうせ汚い服だし」
男は固辞したが、
「いいえ、もとはと言えば私の自転車が事の発端ですし……」
「そうかい? ……うーん。このままだと卵のせいでガビガビになるしなあ」
「早く私の家で汚れを落とさないと……」
「……こんなおれを家に入れてもいいの?」
「べ、べつにかまいません……」
「家の人が不審に思うでしょう」
「夫は、今、長い出張に出ているので……」
浮浪者は、じっと瑞江を眺めていた。そして、しばらく彼女を観察した後、
「じゃあ、参りますか。ご自宅へ……」
同行を承諾した。その男の口元に、あるかなきかの笑みが浮かんでいることに、瑞江は気づいてはいなかった。