その2 ちちろのむしと別れけり-15
「どうだい、特等席だぜ。あいつの姿がようく見えらあ」
見上げると、いつの間にかお峰は火の見梯子のてっぺんまで登りきり、片手で身体を支えながら、もう片方の 手で鳶口を振り上げ、梯子の先端に備え付けられた半鐘を打ち鳴らそうとしていた。折しも、雪を交えた一陣の風が吹き来たり、お峰の乱 れ髪をザアッとなびかせた。
カン……、カン……。
乾いた鐘の音が響き渡り、顎を反らせて天を見上げるお峰の口から、ひきつった笑い声が起こり、あたりに木 霊した。
「ひーーっ、ひ、ひ、ひ、ひ……」
先程まで浮かれ気分で眺めていた野次馬たちの背中にもゾゾッと寒気が走り、ただ一人、瑚琳坊だけが、にや ついて狂女の股ぐらを見上げていた。
朝だというのに空は一面鉛色となり、江戸には珍しく激しい雪が降り始めた。お峰は深緋の袖を翻し、緩慢 な動作で鐘を打ち鳴らし続けた。狂女の哄笑は激しく舞う雪とともに野次馬どもに降り注ぎ、狂気は氷の刃(やいば)となって皆の心に突 き刺さった。
「……お峰さん!」お鈴の喉から白い息とともに言葉がこぼれ出た。「お峰さん、あなたをそんなふうにして しまって、ご、ごめんなさい……」
その言葉が届いたわけではなかろうが、お峰は首を回して下を見た。一瞬、お鈴はこちらを見下ろす底なしに 暗い瞳と視線が合ったような気がした。その時である。お峰が絶叫を発し、身体を激しく震わせた。その拍子に梯子をつかんでいた手が離 れ、彼女の身体が上で大きく泳いだ。
「あぶねえっ!」
観衆が一斉に声を上げた。真っ逆様に落ちるお峰。ぽかんと見上げる瑚琳坊。咄嗟に彼を突き飛ばすお鈴。
ドンッという鈍い音がした。
思わず目をつぶり、下を向いていた観衆が恐る恐る顔を上げてみると、そこには三体の身体が、それぞれ離 れて横たわっていた。瑚琳坊は仰向けになって呆然としており、お峰の身体は奇妙にねじれた格好で半身を見せて転がり、鼻と口からどす 黒い血を流していた。が、低く呻いていたので、まだ息はあるようだった。そして、お鈴はというと、四肢を投げ出し、地面に伏せってい た。
「ああっ、お鈴さんの背中を見ろ!」
一人が叫ぶと、皆の目がお鈴に集まった。倒れた彼女の背中には鳶口の刃が深々と突き立っていた。落下する お峰との衝突は免れたものの、狂女が握りしめていた鳶口が運悪くお鈴の背中に打ち当たったらしい。それも、まるで狙いすましたかのよ うに鋭い刃を食い込ませて……。
お鈴の傷口からは鮮血が溢れ出し、薄い藤色の衣を大きく赤く染め始めた。その鮮やかな赤が瑚琳坊の目に 飛び込むと、彼の酔いは瞬時に吹き飛んだ。酒気は総身の毛穴から一気に霧散した。
「お鈴っ!」
喉が張り裂けんばかりの叫び声を上げ、瑚琳坊はお鈴のもとへ駆け寄った。両膝をつき、わなわなと震える手 が彼女の背中でさまよった。