その2 ちちろのむしと別れけり-14
「気違い女だ。気違い女が番屋から火消しの使う鳶口を奪って振り回してやがる」
「物騒だな。……まだいくらか若え女だぜ。いったいどうしてまた鳶口なんかを……」
「うわあ、あの先っぽの刃が当たったら大怪我するぜ」
お鈴が人混みの外側を迂回しようとすると、彼女に気がついた若い男が顔を赤らめながら頭を下げた。
「これはこれは、女師匠のお鈴さんじゃありませんか。どうもおはようさんです。おや、瑚琳坊の旦那は、 朝っぱらからいいご機嫌で……」
「何か、もめ事でしょうか?」
「いやぁ、狂った女が一人で大立ち回りを演じてるんでさあ。ご覧になりますか? おい、おめえら、そこを どきな。手習い小町のお鈴さんが見物をご所望だ。どきなどきな!」
錦絵にもなったお鈴の名を聞いて人の壁がサッと割れた。瑚琳坊を支えながら頭を下げ下げ歩みいる彼女を、 男衆が陶然とした表情で眺め、そのお鈴に、ぐでんぐでんに酔っぱらった瑚琳坊が寄りかかっている姿に軽蔑と嫉妬の眼差しを向けた。人 混みを掻き分けながら前のほうに出ると、お鈴はハッと身をすくめた。
よろけながら鳶口を振り回している狂女。それは、お峰であった。深緋の小袖の襟元を大きく乱し、振り乱 した前髪から覗く眼が赤く濁って虚ろだった。
「お峰さん……」
いたたまれない気持ちがお鈴の心を覆い、彼女はきびすを返そうとしたが、その時、半分眠りこけていた瑚琳 坊がゆっくりと眼をあけた。そして、何を思ったか、お鈴の身体を突き放すと、ふらふらっと前のめりに歩き出した。
「おう、お峰じゃねえか。ひ、ひさしぶりだなあ……」
へっぴり腰で片手を打ち振り、やけに大きな声で語りかける。
「うん? おめえ、ずいぶんふらついてるじゃねえか。……ははあ、さては、大酒飲んで酔っぱらってやがる な? 女の酔っぱらいなんざ、みっともねえぜ」
酔漢が狂女に説教を垂れ始めた。するとお峰は瑚琳坊を指さし、ひとしきりケラケラ甲高く笑っていたが、よ ろけそうに身体を漂わせていき、番屋の壁にベッタリとへばりついた。そして、やおら冬の曇天を見上げると、壁から上に伸びる梯子に手 をかけ、どんどん登り始めた。
「見ろよ、鳶口を横っくわえにして登ってやがるぜ」見物人が驚嘆の声を上げる。「けっこう重いだろうに、 鳶口は」
「気違いは馬鹿力を出すもんさ。……あーあ、屋根まで登って、……物見台に足を掛けやがった。へへ、見ろ よ、裾がまくれて太腿丸出しだ」
「おっ、腰巻もチラッと見えたぞ! こりゃあいいや!」
野次馬連中の首が一斉にグーッと伸びた。お峰は物見台に転がり込むと、乱れた裾も構わずに、そこからさら に垂直に伸びる火の見梯子に足を掛けた。瑚琳坊の間延びした声がかかる。
「おうい、姐さん、いなせだねえ」
心ない野次馬たちが同調して囃したてる。
「意気でいなせでコンチキチン、コンコンチキチン、コンチキチン」
お鈴はそんな彼等に眉をひそめ、瑚琳坊の腕を引っぱってこの場を立ち去ろうとした。が、彼は逆にお鈴をグ イッと引き寄せると、番屋の壁際まで引きずっていった。