その1 ちちろのむしと出会ひけり-10
お鈴は瑚琳坊の身の回りの世話をするばかりではなく、お針子の仕事で、私塾の心許ない収入の手助けをした。 おかげで、というか、そのせいで、かえって瑚琳坊の怠け癖に輪がかかり、手習い子をほっぽりだして、昼は両国の見世物を見たり、明るいう ちから岡場所の女を買ったりし、夜は夜で博打にうつつをぬかしていた。これでは私塾はさびれる一方かと思いきや、何とお鈴が手習い子たち に読み書きを教え始めたではないか。
彼 女には師匠の素質があるようだった。いや、たとえ素質がなかったとしても、その美貌だけでも十分だった。可憐で美しい女手習い師匠の噂は 瞬く間に広まり、私塾は男の子供で溢れ返った。中には立派に喉仏の出た年齢の男子も潜んでいたが、ひどいのになると、息子を送ってきたま ま居座り、目尻を下げながらお鈴に見とれている親父もいた。
「おまえ見たかい? あのお鈴とかいう女のおっ師匠さん。いやあ、すこぶるつきの別嬪だぜ」
男が髪結床で髷をいじってもらいながら床店のおやじに言う。
「おれっちのせがれなんざ、手習いそっちのけで面ぁ赤くして女師匠の顔ばかり眺めてやがる」
「そりゃ、あんたのせがれだもんな。この親にしてこの子ありだ」
「なんてことぬかしやがる。おめえも一度行ってみな。子供ら、みいんな呆けた面で居並んでやがるぜ。なにせ生 きた弁天様が目の前で教えてくれるんだからな。ああ……おれも子供に戻って、もっと間近でご尊顔を拝したいよ」
「そんなにいい女か? それじゃあおれも、せがれを引っぱって行ってみるか」
床店からも噂が流れ、長屋の私塾を訪れる者は引きも切らず、風評を聞きつけた一人の絵師の筆によって、お鈴の 姿が錦絵にまでなった。その絵は当時人気を博した『笠森お仙』の向こうを張り、飛ぶように売れて版元の蔦屋を大いに儲けさせたという話で ある。いつしか私塾の前は黒山の人だかりとなり、長屋の前に水飴などの屋台が並ぶ騒ぎともなった。 しかしお鈴は自惚れることもなく、 黙々と手習い師匠の仕事に没頭していた。そして、次のような話が彼女の評判を一層高いものにした。
あ る日、月謝の滞納が四ヶ月になり、これ以上遅れると塾をやめさせられるかもしれないという長助に、お鈴は優しく声をかけた。
「長助さん、ちょっと私の頼みを聞いてくれますか? 教場の裏手が秋草だらけで困っているのです。瑚琳坊のお 師匠さんは何だか忙しいようで手が回りません。どうです、百文で裏の秋草を刈り取ってくれませんか?」
百文は四ヶ月分の月謝にあたるが、子供である長助はまだ金銭の価値がよく分からない。彼は何やら銭をたくさん もらえるということで鎌を手にした。汗水流して日が沈むまで草刈りをし、その日のうちに教場の裏手をさっぱりとさせた。
「おお、よく頑張ったこと。さあ、これはおまえの稼ぎですよ」
泥だらけの小さな手に百文の入った袋を握らせると、長助は喜びで顔をくしゃくしゃにして家に駆け戻っていっ た。その夜、慌てふためいた長助の父親がお鈴の前に現れて、
「草刈りなんかで百文などとは滅相もございません。これはお返しいたします」
土間にひざまずいて金の入った袋を差し出した。それをお鈴は押し頂くようにして受け取ると、こう言った。
「有り難うございます。今、確かに四ヶ月分の月並銭を頂きました。これは受け収めの書き付けでございます」
あっけにとられる長助の父親に、お鈴は静かに微笑みかけたという。
「あそこの女師匠様は、生き弁天どころじゃねえ。生きた観世音菩薩様だ」
この話は瓦版にまで載り、お鈴の評判はいやがうえにも高まった。