歪な氷雪-9
4
「行ってきます」
不機嫌な声とともに美羽が家を出て行った。
雅治もすぐにその後を追うが、娘の後ろ姿はすでに遠ざかっていた。
月曜日の朝である。吐く息が白いことを確認すると、ぐっと寒さが増してくる。
日の出が遅い分、気温が上がりはじめるのも遅い。登校するにも出勤するにもつらい季節である。
雅治の予想通り、自家用車のフロントガラスは真っ白に凍りついていた。
やれやれと思いながら運転席に乗り込み、キーを差し込んで暖機運転をはじめる。車内が冷えきっているので、さすがにあくびも出ない。
「五輪、五輪……」
雅治はラジオの周波数を適当に変えてみた。その中からオリンピック情報らしき音声を拾い、耳に意識を集中させるつもりでいた。
美羽は何も気づかなかったのだろうかと、雅治は今朝の光景を振り返る。それは二人が起床してから家を出るまでの慌ただしい光景である。
美羽は雅治に干渉するふうでもなく、きちっと制服を着たまま父親の脇を何度もすり抜け、時にはよそよそしく振る舞ったりしていた。
ようするに親の存在が鬱陶しいのだろう。自分をここまで育ててくれてありがとう、という感謝の気持ちが欠けている証拠なのだ。
やがて美羽が洗面所に向かうと、
「たまには歯医者に行ったらどうだ」
と雅治は心にもないことを美羽の背中に言った。そして目のはじに娘の姿をおさめ、歯ブラシをくわえているのを確認する。
雅治は、この時になって初めて罪の意識を感じた。魔が差したとはいえ、自分の精液を娘の歯ブラシに仕込んだことを恥じたのだ。
見た目にはわからなくとも、生臭いような異臭はするだろう。
すまない──と無言で詫びたあと、静かに虚空(こくう)を見つめていた。
我に返って顔を上げると、フロントガラスの曇りは七割ほど解消していた。
気をつけて運転すれば問題はなさそうだと判断し、雅治はギアとハンドルを慎重に操った。
「これはメダルが期待できるかもしれませんねえ」
興奮気味な声がラジオから聴こえてきた。これから行われる競技はモーグルということだった。
「新星」という言葉が何度も発せられていたので、個人的にひいきにしている選手の顔を雅治は思い描いた。
その女子選手は二十年に一人あらわれるかどうかという逸材らしい。
「体調や天候のコンディションによって結果が左右されますから、まあ、楽観視はできないでしょうね」
ゲストの女性がもっともらしいことを言う。それ以外にふさわしいコメントが浮かばなかったのだろう。
けれども雅治は確信していた。この競技においてメダルにいちばん近い存在は彼女なのだ、と。