約束は守るためにある-1
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―― 十二年前の夜。
ラクシュはまだキルラクルシュであり、黒い森の城に住み、仲間と一年に一度だけの交流をする夜を、とても楽しみにしていた。
彼女は城の最上階にある八角形の部屋で、窓を少しだけ開いた。
夜の闇が黒い森の木々を、さらに黒い影にし、夜風が背の高い針葉樹をそよがせている。
わだちの音が聞こえ、黒い森の入り口まで供物を受け取りに行った同族たちが、馬に台車を引かせて戻ってくるのが見えた。
小麦などの農作物に、肉類、酒類、布、金貨に銀貨。そして生き血を啜らせるために人間が十人。
供物として贈られた人間は、緊急で生き血が必要になった時にそなえ、念のために一人か二人だけは牢に入れて生かすが、大半が今夜で血を吸い尽くされて絶命する。
十人だけしか寄越されない人間で、黒い森に巣住む吸血鬼たち全員が、一度に血飢えを満たそうとすれば、供物の死亡は当然の結果だった。
黒い森の吸血鬼たちも、以前なら人間を殺すまで血を吸う事は、滅多になかった。
面倒で危険も多かったけれど、多数の人間から小まめに少しずつ何度も吸っていたからだ。
―― でも、人間達はそれよりも、毎年十人殺される方が、ずっと良いらしい。
講和条約を持ち出された時、キルラクルシュはそう解釈した。
そして、怖くてたまらなかった日々が終わるのが、とても嬉しかった。
月の照らす城の中庭には、大理石の大きな円テーブルが置かれ、いくつものベンチが取り囲んでいた。供物はテーブルにまとめて積み上げられ、後ほど厨房や倉などに収納される。
キルラクルシュはいつも、他の吸血鬼たちの食事を邪魔しないように、彼らが供物の血を吸い終わってから中庭へ行くことにしていた。
しかし、どうやら今年は、少し早すぎたらしい。
中庭では、まだ人間の供物たちが血を吸われている真っ最中だった。
魅了の魔法をかけられた人間たちは、どれも恍惚と苦悶の入り混じった表情を浮かべて喘ぎ、数人の吸血鬼たちに代わる代わる犯されながら血を吸われていく。
半分ほどはすでに絶命したらしく、キルラクルシュの足元にも、真っ白になった若い女の屍が転がり、虚ろな目でこちらを見上げていた。
「離せ!」
供物たちの奏でる淫猥な濡れ音と喘ぎ声に、吸血鬼たちの笑い声が混ざりあう中庭で、一人だけ大声で怒鳴っている人間の少年がいた。
赤褐色の髪をした少年は、背も低くとても貧弱にやせこけていた。骨と皮ばかりのようなあの小さな身体から、よくもあんな大声の罵声が出るものだ。
ツル草に縛られて仲間に囚われている少年は、どうやら吸血鬼たちが供物の血を吸ったことに激怒しているらしい。
―― どうして怒るの?
キルラクルシュは驚きを禁じえなかった。
供物の取引きを言い出したのも、選んで差し出してくるのも、人間のほうだ。
供物になった人間は、進んで我が身を差し出しているのでは?
供物とは、そういう者だと思っていたから、講和条約が嬉しかったのだけれど……。
考えてみれば、荷台で運ばれてくる人間達は、いつも眠っていたようだ。
そして、キルラクルシュが部屋から降りてくる時にはもう、彼らは死んでいるか、魅了の魔法をかけられ過ぎて正気をなくしていたから、まだ理性を保っている供物を見たのは、これが初めてだった。
もしかしたら、ここに転がっている、少年と同じ赤褐色の髪をした女性も、あんな風に怒鳴り泣き叫んだのだろうか……。
足元に転がる屍を茫然と眺めているうちに、不意に吸血鬼たちがどよめいた。あの少年が、隙をついて逃げたのだ。
少年は腕をつる草で拘束されたまま、中庭の石畳を必死に駆けて逃げていく。
吸血鬼たちはクスクス笑いあい、よろめき走る少年をじわじわと追いかける。
だが、狩りを楽しもうと取り囲むだけで、すぐに捕まえようとはしなかった。