一枚足りない!-6
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ラクシュは鈴猫屋での打ち合わせを終え、アーウェンも市場でおばちゃんたちと料理談義を交わしながら、食材を買い込んだ。
以前に二人で食べた食堂で、ラクシュはまた野菜だけの特製定食を作ってもらい、薄曇に覆われた空の下、他に通る人もいない静かな野原を、二人で帰路につく。
家に入って扉を閉めると、ラクシュはケープのフードを脱いだ。真っ白い髪がハラリと零れ出る。
(はぁ〜……なんとか上手く行った)
アーウェンは深く息をつき、ほっと胸を撫で下ろした。
幸い、食堂でもラクシュが新聞を目にする機会はなかったし、これで彼女はまたしばらく家を出ない。
しかし、気分は妙に沈むばかりで、ラクシュがせっかく可愛らしい装いをして、髪には鉱石の飾りまでつけているのに、浮かれる気にもなれない。
彼女に散々嘘をついた最悪感のせいだろうか。
「ラクシュさん、その服……着る気になってくれたんですね。すごく素敵です」
落ち込みを誤魔化そうと、アーウェンはアップルグリーンの服を眺めて、ようやく簡素な褒め言葉を口にした。
先日、アーウェンが贈ったこの服を、ラクシュは気に入ってくれたようだが、なぜかこれを着ての外出は無理だと言い、一度来ただけでずっと部屋に飾っておいたのに……。
「ん」
ラクシュが小声で頷いた。
気のせいか、いつにも増して無口だし、その声もなんとなく悲しそうだ。
「これ、着たら……きみの、キラキラ……戻ると思った」
「俺の、キラキラ……?」
ラクシュの言葉を今ひとつ掴めずにアーウェンが尋ねると、赤い胡乱な瞳に、じっと見つめられた。
「アーウェン……きみは、嬉しい時はいつも……すごく綺麗に、キラキラしてる」
抑揚のない声だけれど、とても大事な秘密を打ち明けるような、真剣な色だった。
「でも、今日は…………きみの、キラキラが……見えないんだ」
ラクシュはポケットを探り、しわくちゃの紙を取り出す。
「悲しいのは……これ、見たから?」
「っ!?」
アーウェンは大きく目を見開いたまま硬直する。
差し出されたのは、キルラクルシュの討伐について書かれた、一枚目の紙面だった。
「ラクシュさ……これ、なんで……」
喉が乾いてひりつき、うまく言葉が出ない。
「噴水前で、拾った」
ラクシュは言い、しわくちゃの新聞紙をまたポケットに閉まった。
そして黙って立ち尽くすアーウェンを見上げて、ボソリと呟く。
「私を……心配した?」
「……」
アーウェンが無言で頷くと、ラクシュは小さく息を吐いた。
「皆のことは……悲しい。けど……私、大丈夫だよ。アーウェン、心配ない」
「……悲しい?」
ようやく搾り出した声は、ひどく掠れていて、自分でも嫌になるほど嫉妬に澱んでいた。
「へぇ……自分を裏切った相手でも、ですか?」
「……ん」
頷いたラクシュに、とても苛ついた。
アーウェンの腕は反射的に、細い両肩を強すぎるほど掴んでいた。
「俺は心配です! ラクシュさんは、いつもそうやって大事にするから! 自分を傷つけた奴等さえも、大事にし続ける……っ!」
犬歯が伸びて、瞳に虹彩が浮んで行くのがわかる。狼化してしまいそうなほど、どうしようもない憤りと不安が、腹の底からこみ上げてくる。
「貴女が不要になったら、簡単に手の平を返した連中だ! また必要になったら、平気で縋ってくる! だから……だから、俺は……っ! 何も知らせたくなかった!」
喉奥で唸りながら、クロッカスに言われた意味を、ようやく思い知った。
ラクシュがキルラクルシュだったと知らない彼でさえ解るほど、アーウェンの行動はあからさまに、自己中心的だったのだろう。
故郷の壊滅を隠そうとしたのは、ラクシュへの思いやりなんかではなく、アーウェンの自分勝手な嫉妬だ。
避けたかったのは、ラクシュの関心が、生き残った吸血鬼に向くことだ。
「ラクシュさんのために心配したんじゃありません! 俺が、怖くてたまらなかったんです!」
「アーウェン……?」
「もし、あいつ等に望まれたら……貴女は、助けようとするかもしれない……キルラクルシュに戻ってしまうんじゃないかと……怖い。ラクシュさんが、いなくなるなんて……」
本当は無敵の強さを内に秘めている、とても変な吸血鬼を前に、情けなく嘆いた。
最愛の人を失う不安に、震えが止まらない。
もうそれ以上の声も出せないでいると、ラクシュの白い指先が伸びてきた。
「そっか……」
出会った十年前は、彼女の方が背が高かったけれど、今はもう頭一つ半もアーウェンが高い。
それでもあの頃は、いつも躊躇うようにおずおずと伸ばされていた手が、今はいともたやすく触れる。
アーウェンの前髪を撫でて、ラクシュがぼそぼそと呟いた。
「私、これからも、ずっと……ラクシュさん、だよ。約束する……私、そうしたい」
アーウェンが黙ったままでいると、ラクシュは目を伏せて、顔を背けた。
「きみの、キラキラ、大好きだけど……やっぱり、眩しい」
「……俺は、キラキラして見えるんですか?」
―― とても自分勝手で、大事なのは貴女と自分だけで、他はどうなっても構わないようなヤツなのに。
涙声で尋ねると、顔をそらしたまま、短く頷かれた。
「ん」
どちらから近づけたのかも解らぬまま、いつの間にか唇が重なる。
薄い皮膚を触れ合わせて、互いのぬくもりが交じり合うと、強張り冷え切っていた心が、ようやくほぐれていく。
「ラクシュさん、ラクシュさん……」
愛しすぎて、何度呼んでも足りない名を、繰り返し呟き続けた。