あんずの花-2
数日が過ぎたお盆休みの前に、あの男が小夜子の店を訪れた。
「こんばんは。」
「あら、いらっしゃい。カウンターに座る?」小夜子は自分の前に座らせた。目で麻実におしぼりの合図をする。
「こんばんは、麻実でーす。よろしくお願いします。」ニコニコして麻実は男におしぼりを渡した。
「何にしますか?」男の顔を見ながら麻実は注文をとった。
「今日は車なんでごめんなさい、呑めないんです。コーヒーお願いします。」
「かしこまりました。」やはり麻実はニヤツイていた。
「決心出来たの?」カウンターの中でコーヒーを淹れながら小夜子は聞いた。
「はい、決心しました。」すっきりした顔で男は言った。
「どうするの?」カランカラーン!店のドアが開く。
「ママ!こんばんは」
「あらっ、テッちゃんいらっしゃい。麻実ちゃんお願い。」
「はーい。」話しが中断してしまった。
「ごめんなさい。それでどう決心したの?」小夜子は聞き直した。
「今日、千恵さんを連れ去ります!」男はきっぱりと言い切った。
「そう。」小夜子の口元が笑った。
「ちょっとごめんなさい。」そう言って、コーヒーを出すとカウンターを離れた。
しばらくの時間が経った。ドアが開き、小柄な紳士が入って来た。
「大城先生、こちらの方。」小夜子は男を大城と名乗る紳士に会わせた。大城は名刺を渡す。
「弁護士の先生ですか。」男は言った。
「小夜子さんから大体は聞いてるよ。後は彼女次第だね。」そう言うと小夜子に合図を送る。小夜子が携帯を取り出した。
「千恵ちゃん?今、お店にあなた目当てのお客が来てて、あなたに逢えなければ帰らないっておっしゃるのよ。ちょっと来れないかしら?」
「えっ、どんなって、お洒落なスーツ着て、上品な男性よ。粋な鞄持ってて。いいから来れない?」
「うん、タクシーで良いわよ。
10分後、店の前にタクシーが止まった。「えっ!」タクシーを降りた千恵の心臓は止まりそうだった。「バン・プラ。これって!」千恵の目に飛び込む彼の車に、慌てて店のドアを開ける。
「ダーリン!」千恵は走り寄り、彼に飛びついた。彼も思いっきり千恵を抱きしめた。
「おやおや、とんだ光景だな。」客の一人が笑顔で言った。
「逢いたかった。ずーっと、逢いたかった。どうして、どうしてここにいるの?」千恵は彼の胸に顔を埋めた。
「転勤が決まって、どうしても千恵さんに伝えなければならなくて、小夜子さんに相談したんだ。」
「転勤て、何処か行っちゃうの?」
「実家の近くの支店に配属された。今後移動は無いと思う。この辺りとはお別れになる。」
「いつ行くの?」
「今日。」
「えーっ、今日?」
「だから今日は千恵さんを連れ去る為に来たんだ。」彼は、千恵を抱きしめたまま話しをした。
「えっ!、、、ダメ、ちょっとダメ、トイレ行っていい?」千恵の心臓は張り裂けそうだった。千恵はトイレに行く。「びえ〜びえ〜」声を張り上げて泣いた。その声は店内にも聞こえ、皆がもらい泣きをした。
千恵がトイレから戻る。涙は止まらない、崩れた化粧のまま、ハンカチを鼻に当て彼に向かって大きく頷いた。