月夜のヴィーナス-7
次の日の昼過ぎのことだ。竜次は日本好色出版に原稿を持ち込んだ。編集長の生田勤は時より黒縁めがねの位置を直しながら一気に原稿を読んだ。そして白髪交じりのヒゲをいじりながら言った。
「いいじゃないか。犬山君。凄いリアル感だ」
「ありがとうございます」
「これは実話なのか?」
「さあね。申し上げられません」
「そうか。まあいいや。とにかく最終審査にまわすよ」
「ありがとうございます」
竜次はアパートに帰るとコーヒーを入れた。窓を開けてごくりと飲んだ。
「上手い。苦くない」
やっと上手いコーヒーを飲むことができた。隣の部屋では洗濯機の音がしていた。そして窓を開くと静香が洗濯物を干しだした。
「いい天気ですね」
竜次はそう言うと
「本当に洗濯日和です」
静香は笑顔で答えた。
昨夜何もなかったように二人は振舞った。竜次は静香をまた抱きたいと言おうかと思った。その矢先に静香の隣りから夫が顔を出した。
「和田です。妻から聞きました。昨日ご挨拶されたと聞きました」
「あ、はい。長い間隣同士なのに一度の挨拶もなく失礼しました」
竜次は何とかその場を乗り切った。静香の夫誠は銀行員風で真面目そうな男だった。
「今日はお休みですか?」
「ええ。有給がたまっていたんでね。あなたは作家さんですってね?」
「作家といえば作家ですが・・・」
「どうです?今夜わが家で夕食食べませんか?」
「いえいえ。お気持ちだけで」
「そうですか。それは残念だ」
「すいません」
竜次は冷や汗ものだった。夕食を誘うなんて私をためしているのか?それとも本当に単なる隣人への招待なのか?私は静香への思いは断ち切った。作品を仕上げたことで静香との関係は終わりにすることにした。そして新しい題材を求めてまた暫く時の流れに身を任せようと思った。