そうだ 靴を買おう-3
一年ぶりに見る地上の空は、さぞ眩しいと思ったのに、どんより濁った曇り日だった。
魔物奴隷の店は、人目を避ける路地裏にあり、ネズミや虫がゴミ箱を漁っている路地は、余計に陰気に見えた。
店の外に出ると、女はクルリと振り返った。
「ん……」
引き結んだ唇の奥から、女の声を初めて聞いた。店の中でも、女は身振り手振りで示すだけで、一言も口を聞かなかったのだ。
首元に両手を伸ばされ、アーウェンはとっさに身体を強張らせる。
これ以上、妙なことをするなら、殺してやると思った。
しかし次の瞬間、女の細い指はアーウェンの首枷を、柔らかなパンのように引きちぎった。
「なっ!?」
重い鉄の首枷はとても頑丈で、鍵穴も潰してある。鍛冶屋にでも行かなければ、とても外せないはずだ。
「……欲しい?」
壊れた首枷を見せられ、ブンブンと首を横に振る。
女は近くのゴミ箱に、壊れた枷を突っ込んだ。そしてアーウェンに、ついておいでと言うように手招きする。
「……」
妙な気分だった。路地は二つの賑やかな通りの合間にあり、女の反対側へ走り去ってしまえば、雑踏に紛れて逃げられるかもしれない。それなのに、どうしてもそうする気にはなれなかった。
(こんな……変で、気持ち悪いヤツ……)
冷や汗を浮かべながら、女にゆっくり近づくと、女は小さく頷いた。
「ん」
短い声は、やたら満足そうに聞えた。
それから女は、アーウェンを湯屋に連れて行き、身体を綺麗にして伸びた髪と爪を切り、旅用の衣服などを一そろい買い与えた。
女はどの店でも口を聞かず、身振り手振りで欲しい品を現すだけだ。アーウェンにもまったく話し掛けない。
だからアーウェンも黙っていたが、女が靴屋でアーウェンにだけ丈夫な革靴を買って、さっさと店を出た時に、もう我慢できなくなった。
雑踏の中を、影のように静かにすり抜けていく女の、黒い後ろ姿に声をかけた。
「……なんで、ですか?」
丁寧な言葉使いは、最初の主の元で教えられていたが、地下牢では乱雑な言葉ばっかり吐きかけられていたから、少しあやふやになった。
「ん?」
女がアーウェンを振り向き、小首を傾げる。
「だって……俺の靴は買ったのに……」
アーウェンは女の足元に視線を落とした。
女が履いている泥だらけ室内スリッパは、どこの店にいっても異様で注目された。穴だらけで底は薄く擦り切れ、これじゃ小石を踏んでも痛いし、水だって滲みこむだろうに……。
「……欲しい?」
女にスリッパを指差され、慌てて首をふる。
どうして、そうなるんだ!?
「ち、違……っ! その、なんていうか……」
「……私、この靴、好きだよ」
ふいに、女が抑揚のない声で話し始めた。つっかえつっかえ、何度も悩むように言葉を切り、一生懸命にたどたどしく話す。
「私、ずっと昔は、黒いブーツ、履いてたんだ……あの頃、毎日、怖かったの」
「そ、そうですか」
よく意味がわからなかったが、とりあえず相槌を打った。
「でも……城の部屋と、この靴、もらってからは……毎日、静かになって、嬉しかった……代わりに、一人になっちゃった……けど……」
女はふいに、唇をきゅっと引き結んだ。黒い擦り切れたローブの袖から、真っ白い手が伸ばされる。
血の気のない手は、一瞬ためらうように止まってから、アーウェンの頭を指先で少しだけ撫でた。
「今日から……きみが、いる」
ラクシュの言葉は、やっぱり意味がわからない。
でも、まるきり抑揚のない声なのに、なぜか彼女がすすり泣いているように聞えた。