変心-18
男が部屋に入った時、恵はベッドの端に腰掛け、こちらを向いていた。よほど長く泣いていたのだろう。瞼は腫れ、頬には涙の跡があるが、その瞳には力強い光が宿っていた。
男は恵をじっと見つめた。
頬はこけ、痩せ細ろえた身体には肋骨が浮き、髪は乱れ、目には隅がある。しかし、その姿は言いようの無い美しさを湛えていた。
“そうだ。それでいい。”
心中でそう呟きつつ、男は恵に近寄っていった。
1メートルほど手前で立ち止まり声をかける。
「前回お前は一度に3回のカウントを稼いだ。」
恵は無言で男の言葉を聞いている。
「今日はその褒美をやろう。」
「褒美?」
あまりに意外な言葉に思わず聞き返す恵。
「そうだ。1回の接触で3回以上のカウントを稼いだ場合は、その都度食事を二品増やしてやる。一つは肉や魚、もう一つはデザートだ。」
「二品…」
「さらに、5回以上なら次の接触までの間、手の拘束を解いてやる。」
「!?」
男の言葉の内容は、恵に大きな衝撃を与えた。
食事増量と拘束解除。
それは非常に魅力的なご褒美だ。
現在はお粥と野菜スープと水のみの食事が1日1回だけ。それは餓死しない最低限の量と質でしかない。当然、体力は戻らず、常に身体がだるい。しかし、この状態が二品増えて解消されれば、カウントを稼ぐ事が容易になる。
“あの地獄のようなフェラチオじゃなくても、私自身が動くタイプのフェラチオで回数をこなすことができるようになるかもしれない。”
途中、たとえ結果として死が訪れようとも、二人の子供のために命の限り耐え抜く覚悟を決めた恵だったが、死の危険を孕むイラマチオを避けることができるなら、それは何としてでも手に入れたい権利だった。
“しかも、手が使えたら、もっと簡単に射精させることができる!”
100までの道程に光が差したかのような感覚だった。
言葉の意味を咀嚼し飲み込む恵をよそに、男は持ってきた袋からいつもの食事を取りだした。水、お粥、野菜スープ…。さらに今回は、その横に新たな二皿が追加され、そこにタッパーからサイコロ状の肉と数種類のカットフルーツが盛られていく。
全てを盛り終えると、男は恵に向き直り声をかけた。
「そこをどけ。」
意味が分からないままにベッドから立ち上がり、横に移動する。
男はベッドに近づくと、毛布と枕代わりのクッション、スプリングの上に敷かれていた敷き布団を引き剥がし、両手に抱えて部屋から出て行った。
数分して再び戻ってきた男は、同じく両手に抱えた布団や枕を手際良く敷き直していく。小便で濡れた布団は真っさらの清潔なものに替えられた。
ベッド脇に突っ立ってそれを見ていた恵は、男の意外な行動に目を奪われていた。
一食毎に皿を替える事といい、今回の事といい、この男はかなり几帳面だ。いや、神経質なのか。そういえば食事も手を使わなくても食べやすいように一口大にカットされている。絶食後のお粥にしてもそうだ。濡れタオルで顔を拭いた時もその意外なほどの丁寧さに驚いた。壁の写真も見事に等間隔で貼られている。
憎悪と嫌悪の対象でしかなかった男の内面を思わず垣間見た気がした。それすらも男の意図したところだと疑いもせず…。
男は恵の中でカウントの価値を確かなものにするため、『100回で解放』の信憑性を高める必要があった。その一手段として几帳面さを演出しているのだった。
“じゃあ、さらに追い打ちをかけるとするか。”
ベッドメイクを終えた男は恵に向き直り、次の矢を放った。
「こっちに来い。」
ジャラジャラと鎖を鳴らし目の前に来た恵は、そのまますぐにしゃがみ込もうとする。フェラか飲尿だと思ったのだろう。あまりの順調さに男の口に苦笑が浮かぶ。
「違う。立って後ろを向け。」
「!?」
今度は後ろから犯されるとでも思ったのか、恵は一瞬身を固くしたが、すぐに立ち上がり後ろを向いた。男は恵を待たせたまま、袋から重たげな鎖を引っ張り出してベッドの脚に繋ぐ。
背後から聞こえる音に不安を感じている恵の右足首が掴まれ、「カチャ」という音とともに拘束具が取り付けられた。
“足まで!?”
新たな箇所の拘束に沈みゆく恵だったが、男の行動はそれで終わらなかった。
男は次に、上着の内ポケットから銀色に光る鍵を取り出すと、数日間にわたり恵の手を拘束していた手錠を外したのだ。
「!!」
あまりの嬉しさに振り向く恵。今にも感謝の言葉が口から出そうだ。
数日ぶりに伸展状態から解放された肩は、拘縮が始まっていたのだろう。屈曲しようとすると鋭く痛むが、そんな事は些細なことだった。
肩を回し手首を捻り、ささやかな自由を謳歌する恵を横目で見ながら、男はいつもの手際で濡れタオルを作り、恵に差し出した。
「使え。」
これで身体を綺麗にしろという意味なのだろう。恵は男の手からタオルを受け取ると、両手に持ったタオルに迷わず顔を埋めた。
“気持ちいい…。”
染みこんだ水の冷たさが心地よかった。