8:五月十九日、未の刻-1
8:五月十九日、未の刻
信長と義元がほんの少しの差で擦れ違ってから、わずか数分後――。
半刻ほど吹き荒れた嵐が、いきなり嘘のように熄んだ。
飛礫のような雨に打ち据えられつつ、山際の道にしがみつくようにして桶狭間村へ南下してきた織田方の騎馬隊は、
「おお、見よっ! 義元の塗輿じゃあっ!」
気がつけば大池の端を行き過ぎ、長福寺の傍に到っていた。
中島砦から道なき道を一里ほど。そのほとんどの行程が暴風雨の中だったことを考えれば、いくら馬に乗っていたとはいえ脅威的な速さだ。歩兵のほとんどは追いついておらず、一番うしろ端にいたってはようやく釜ヶ谷を抜けた辺り。
だがとにかく、信長を含んだ先頭の騎馬隊は、長福寺の西側にいた。
そのすぐ南、陣幕を吹き飛ばされて裸の丘となった仮陣の隅に、打ち捨てられたままの塗輿が雨に濡れて紅く艶やかに輝いている。
当然周囲にはまだ数千の今川兵たちがいるが、最前まで嵐を避けることに精一杯だったから、身構えも心構えも出来ていない。
それは織田方も同じだったが、ただひとり、義元の首を獲らねば己の未来はないと確信している信長だけは別だ。
「すわ、かかれかかれっ!」
大きな声で号令し、まだ呆然としている今川兵に遮二無二突き掛かった。
駿河勢はなにが起きているのか理解できないうちにひとり屠られ、ふたり屠られ――三人目が突き殺されそうになったとき、ようやく「わっ!」と声を上げて逃げ始める。
突然の嵐に掻き回された直後、いきなり敵兵に襲われたのだ。織田方の騎馬たちも、まだ状況をよく呑み込めていないためにその槍先は精彩を欠いているのだが、そんなことを冷静に判断する余裕などない。槍や刀を投げ捨て、陣笠まで脱いで、皆が皆、四方八方へ駆け出していく。
「首は拾うな、捨て置けい! 欲しいのは義元の首だけじゃっ! 捜せ、捜せぇいっ!」
手当たり次第に槍を揮いつつ、瀬戸山に設けられた仮陣の跡を縦横無尽に輪乗りした信長は、盛んに馬を煽りながら血走った目で周囲を睨み回した。
嵐のせいで陣幕は跡形もなく吹き飛び、逆茂木も倒されている。あちらこちらに槍、幟、刀、鉄砲などが、投げ捨てたように放置されている。
だが、肝心の義元は見当たらない。
陣幕がすべて吹き飛んでいるのだから、隠れられるような場所はない。
「ええいッ! 雑兵の首は要らぬッ! 深追いするな、義元を捜せッ!」
叫ぶその瞳は、数刻前よりいっそう凄まじく血走っていた。
(逃げられた? まさか、そんなはずは……じゃが、義元なら有り得る!)
被害妄想に囚われている信長の中で、義元はいつしか鬼神にも等しい存在になりつつあった。先ほどの嵐も、ひょっとしたら追っ手を察知した義元が、駿河に伝わる妖術で引き起こしたのではないか――と、そんなことまで思ってしまう。
(いや、いやいや、そんなはずはにゃあっ! 義元だとて人じゃ、天狗じゃにゃあのじゃから、嵐を招きよせたり、まして空を飛んで逃げたりはしにゃあはず……)
なんとか常識的に考えたものの、そこから思考が飛躍する。
桶狭間の仮陣を囮にして、義元はすでに沓掛城へ着いているのではないか――沓掛から新たな兵を発し、善照寺砦へ向けて進軍し始めているのではないか――。
(そ、それはにゃあっ! 大高道をさらに東へ行かにゃあ、沓掛へ向かう東浦道には出れん。そんなに早くは行けにゃあはずじゃ!)
しかし、それも時間の問題だ。
このまま放っておけば、義元は沓掛城へ到り、善照寺砦へ向かうはず――。
「……簗田ッ! 沓掛へ向かう道はッ!?」
「え? あ、いや……こ、こっちでござるっ!」
凄まじい凶相を呈した信長に叫ばれ、政綱は青くなりながら馬首を返した。長福寺の境内を走り抜け、北へ――少し前に義元たちが嵐の底を這いながら進んだ道を、そうとは知らぬまま正確に辿る。