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『誤算』
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7:五月十九日、午の刻-2

      *  *  *
 その少し前、信長は――。
「簗田、先を行け! 野伏せりの道を桶狭間に向かうのじゃ!」
「ハッ!」
 中島砦から東へ進んだもの鎌倉街道へは向かわず、天満宮を左手に見ながら薮の中へ馬を乗り入れた。その横を梁田政綱が擦り抜けて先に立ち、入り組んだ谷筋に沿ってさらに東へ進んでいく。
 もちろん、谷底を歩くわけではない。
 斜面の中ほどを伝い抜け、やや南に降りながらさらに東へ。
 今川方の輜重隊を襲っていた野伏せり、つまり簗田の手の者が往き来していた、道とも言えない道だ。追撃者に見つかっては元も子もないので、敢えて整備はしていない。
 当然、慣れていない馬たちは進むのを嫌がり、焦る信長の気持ちを逆撫でするように嘶いて暴れ、行軍速度は極端に遅くなった。
 この辺りの山や丘は、薪などを採るために森が拓かれ、木々は少ない。薮といっても足下を邪魔する程度のものばかりで、だから無理に分け入れば通れないこともないが、逆に言えば反対側の斜面から丸見えでもある。
 ただ、織田方にとっては幸いなことに、途中から強烈な嵐となった。
 馬の嘶きも人の怒号も毟り取るように吹き飛ばされ、あるいは梢のざわめきに掻き消されて、十間(一間は約二メートル)先にも届かない。顔も上げていられず、しかも夜のように暗くなっているから、手越川の対岸・高根山や這山に配置されていた今川方の物見の兵も、山腹を擦り抜けて東へ向かう信長の軍にまったく気づかなかった。
      *  *  *
「早う、早う……沓掛へっ!」
 吹きつける風に足を取られつつ、義元は道筋から東の薮へ這い込んだ。生い茂る笹を掴み、潅木の枝を折りながら、緩い登り斜面を懸命に這い上る。
 付き従う騎馬たちも、数十人の小者たちも、みな必死だ。
 前になりうしろになりながら義元とともに薮の中を駆け、ひねこびた松に行く手を阻まれながら、なんとか坂上へ。
「大殿様っ! ここからは降りでござる! あと少し……あっ!?」
 うしろを振り返った騎乗の旗本が、雨に濡れた顔を驚愕に強張らせた。
 林の木々を透かした向こう、一町ほど先の谷間から、ドッと溢れ出した織田方の騎馬隊に気づいたのだ。
 降りしきる雨と吹き荒れる風に視野を阻まれ、その数は定かではないが、少なくとも百騎ほどが一塊になり、嵐の底をジリジリと南下している様子。
「登れ、登れぇいっ!」
 叫ぶ義元を引きずるようにして、今川方の旗本やその小者たちがぬめる斜面を登りきり、北へと下る谷筋へ降り始めた直後――。
「行けぇい、進めぇえっ! 義元の首を獲るのじゃぁあっ!」
 風の唸りにも負けぬほどの大声を発しながら、織田の軍勢が坂の入口を掠めて南へ南へ進んで行く。
(沓掛ではなく、こちらへ来たのか……ッ!)
 間一髪虎口を脱した形の義元だが、しかしまだ気は抜けない。嵐に動顛し、七千の手勢のほとんどを桶狭間の仮陣に残したままだ。
 勢いづいた織田の騎馬は、列を成し、抜きつ抜かれつしながら百か二百。さらにその倍ほどの歩兵が、それぞれの主に遅れまいとして懸命に付き従っている。
 対してこちらは旗本の騎馬三百と、数十人の小者だけ。
 いまさら取って返すわけにはいかない。
(と、とにかく、沓掛へ……この道を進めば沓掛へ出られるのじゃ……!)
 その一心で、義元はぬかるむ降り斜面を転げるように駆け始めた。


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