7:五月十九日、午の刻-1
7:五月十九日、午の刻
ジリジリと照りつけていた太陽が、中天を超えて西の空に傾き始めたころ――。
それまで風もなく、茹だるように暑かった桶狭間の盆地に、にわかにひんやりとした微風が吹いた。
「やっ!? これはいかん……ッ!」
七千の手勢とともに桶狭間村の仮陣に到り、長福寺の住職や近隣の農民からの戦勝祝いを受けて機嫌よく謡い躍っていた義元は、ハッと空を見上げて息を呑む。
鉛色の雲が西から東へ、北から南へ、みるみるうちに広がっていくのだ。連日の好天で地に熱が溜まり、それが強い上昇気流を招いて、巨大な積乱雲を生んだのだろう。
温められた伊勢湾と三河湾の湿った空気が、上空に吸い上げられて行くにつれて白い雲に変わり、みるみるうちに背を伸ばしていく。その真下では厚い雲に日の光が遮られ、夜のように真っ暗になって――。
「嵐になるぞ、みな隠れろ!」
叫んでいる間に、ビョウッと、叩きつけるような西風が吹いた。
瀬戸山に張り巡らされていた陣幕が吹き飛び、長福寺境内の木々が折れんばかりに揺れた。煽られた馬たちが嘶いて、勝手に走り出そうとする。
夜のように暗くなる中、大粒の雨が音を立てて降り始めた。
稲光が閃き、天が割れたような雷が鳴り響く。
雨混じりの風はますます強まるが、薮を切り払った丘の上の仮陣に隠れられるような場所はない。転がるようにして寺の境内に飛び込む者、陣の端に残っていた木の根にしがみついて吹き飛ばされまいとする者――七千ばかりの兵たちも天候の急変に慌てふためき、為す術もなく右往左往するのみ。
そこへ、泥塗れになった伝令の兵が転がるようにして駆け込んできた。漆山で殿軍を勤めている松井宗信が発した兵だ。
「織田方、出陣! 兵二千ほど、中島砦より東へ! か、鎌倉街道を沓掛へ向かうものと思われます!」
「な……なんだとぉっ!?」
飛礫のような雨粒に打ち据えられながら、叫ぶ義元。
ここで言う鎌倉街道は、のちの東海道ではない。もっと北、沓掛城の脇から発して丘陵部を突き抜け、善照寺砦の裏手に到る道だ。
つまり、織田側から言えば沓掛城の裏手へ出るための道。
川の中州にある中島砦からだといったん北へ向かって斜面を駆け登り、そこから鎌倉街道へ合流しなければならないのだが、徒歩でなく馬ならばたいした差ではないだろう。
沓掛城には千五百ほどの守備兵を残してあるから、普通なら、二千ほどの敵に攻められた程度では落ちないだろうが――。
(この風は拙い。これほど強くては、西に顔を向けられぬ!)
雹混じりの暴風が吹き荒れている間なら、西から攻め寄せる織田勢が俄然有利になる。この嵐が長引けば、沓掛城を落とされてしまうかも知れない。
(あの城は、鳴海城攻めに不可欠じゃ! いま落とされるわけにはいかんっ!)
そう考えた義元は、傍に転がってきた旗本の肩を掴み、吹き荒れる風に負けじと大声を張り上げた。
「沓掛へ帰る! 馬に乗れいっ!」
「えっ!? こ、この嵐の中を……ですかっ!?」
「丘の東側へ出れば、多少は進めるようになるじゃろ! 早くしろ、こっちじゃっ!」
唸る暴風に逆らって義元が向かい始めたのは、長福寺の北、西山のある方角。
(間道を抜ければ、ちょうど織田方の背後を突くことになるか……間に合うか? いや、なんとしてでも間に合わせねば!)
立ちあがれないほどの嵐の中、義元は必死の形相で這い始めた。