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『誤算』
【歴史 その他小説】

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5:五月十九日、辰の刻-1

5:五月十九日、辰の刻
(あ、あかんがね、もう落ちとるがね!)
 卯の刻になるかならないかのころ、佐久間盛重からの急報を受けて飛び起きた信長は、法螺を吹かせたあとほとんど単騎で清州城を飛び出し、必死に着いてくる五騎ばかりの小姓たちを振り返ることなく、熱田神社まで全速力で馬を走らせてきた。
 しかし熱田湊の端から南を見れば、海の向こう、大高の丘の上から幾筋もの黒煙が、朝日を浴びてまっすぐ天に昇っている。
 鷲津砦と丸根砦が攻略され、火をつけられたのだ。
(おかしい、早すぎる……!)
 ただでさえ白い顔をさらに白くして、信長は己の読みを再検証した。
 今川方の戦略の中心は、沓掛から鎌倉街道を西進して善照寺砦を攻めること。大高攻めはそのための布石にすぎず、ゆえに、砦攻めは敢えて長引かせるはず――。
 黒末川のこちら側で歯軋りしている信長に見せつけつつ、猫が鼠を嬲るようにジクジクといやらしい手で砦攻めをするはずなのだ。我慢できずに織田方が南進すれば鷹揚に迎え撃てばよいし、必死に我慢して踏み留まった場合でも、本命の善照寺攻めをおもむろに開始すればよい。
 沓掛城に大軍を置いているのはそのためだ。あそこに義元の本軍があるから、織田方は動けなかったのだ。
 なのに、予想に反して砦攻めが開始され、完了されてしまった。
(いったいなぜじゃ? なにが起きておるのじゃ……?)
 真っ青になりながら首を捻る信長の耳奧に、二日前の夜、梁田政綱から受けた報告がふっと甦った。
 ――桶狭間村に急拵えの陣あり、荷駄集積と思われ。東西南北二町ずつ、瀬戸山。
 黒鍬衆が見当たらないのであくまで臨時の陣だろうと、簗田は言っていたが――。
(……城を作る気か!)
 大高への兵糧入れは火急の用件だったから大慌てで臨時の陣を敷いたが、それが済んだいまなら時間はたっぷりある。改めて縄張りし、しっかりとした城を築くことも可能だ。
 そう考えると、いろいろなことが腑に落ちる。
 七千の本軍を沓掛城に入れておいて、なぜ大高攻めを優先したのか?
 織田方を釣り出すための餌だった砦を、なぜこうも急いで落としたのか?
 すべて、桶狭間に城を築く時間を創り出すためだとしたら――。
(ぬぅ……さすがは海道一の弓取りだなも。あそこに大けな城を築かれたら、わしはなにもできにゃあなってまう!)
 大高への兵糧隊を野伏せりで襲えたのは、桶狭間村の辺りが権力の空白地帯であったからこそ。大高城からも沓掛城からも一里ほど離れているから、今川方の監視の目が行き届かなかったのだ。
 それを良いことに桶狭間を突っ切って境川河口まで出向き、村木砦を盗ったりしたのだが、桶狭間に城を作られたらもう無理になる。せっかく靡きかけていた知多の豪族たちも、再び今川方に取り込まれてしまうだろう。
 付け城を築くのも、無理だ。
 丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根――碁石を打つように伸ばしてきた砦の列は、桶狭間という権力の空白地帯があったからこそ設けることができた。また、臨時の陣が敷かれた場所は東西南北に伸びる街道の交叉点だから、補給路を断つためには最低でもよっつの付け城が必要だが、敵地の奥深くにそんなものを作る余裕などあるわけがない。
(拙い、拙い、拙い……こんな大けな絵図面を描ける義元は、今日ここで、是が非でも討たにゃあならん!)
 昨晩の軍議でも「義元を討つ」とは言ったが、あのときはまだ本気ではなかった。威勢のいいことを言い、沈みがちな諸将を励まそうとしただけだ。
 しかし、いまは違う。
 自分より遥か先まで読み尽くし、確実に勝てる手を打ってくる戦の天才を生かしておけば、早晩自分は負ける。三河、遠江、駿河まで帰られたら、二度と討てなくなる。
(今日、ここで、義元を討つ! なんとしてでも討つ!)
 それ以外に、自分の未来はない――そう思い詰めた信長は、熱田神社の境内に集まり始めた兵たちを率いるため、鋭く踵を返した。


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