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『誤算』
【歴史 その他小説】

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6:五月十九日、巳の刻-1

6:五月十九日、巳の刻
 大高城で評定を終えた義元は、塗輿に乗って悠々と城門を潜り、沓掛城へ戻り始めた。
(少々段取りが違ってしまったが、まあよい。明日は予定通り鳴海城を奪還する。織田の若僧の首、この手で挙げてみせようぞ!)
 北叟笑む義元の額に一筋、大きな汗の粒が滑り落ちた。
 今日も暑い。
 まるで蒸し風呂の中にいるようだ。
 駿河は年中通して暖かな地だが、これほど蒸せることはまずない。
(伊勢と三河の海が、近いせいじゃな……)
 内海は外海に比べて潮の流れが緩いため、水温が上がりやすい。しかも夏は南から北へ風が吹くせいで、海上の湿った熱気が次々と送られて来る。そのうえこの辺りは丘に囲まれた浅い盆地だから、風が弱い日には熱気がこもってしまうのだ。
(これでまだ五月なのだから、敵わんのう。七月八月になったら、いったいどれほど蒸すものか……いやはや、早くも駿河が懐かしいわい。予定通り、今回は鳴海を取り返すまででよしとしよう)
 そんなことを考えている義元の周りを、三百の騎馬隊がゆっくりと追随している。荷駄用の馬に偽装して前線に運んだ、旗本用の馬だ。普段ならその寄子も騎馬武者なのだが、作戦上の都合により、いまは徒歩で追随している。
 徹夜で一仕事終えたばかりの兵たちはもちろん、馬も暑さに参っているようで、その足取りは鈍い。一里弱の桶狭間まで行きつくのに、半刻以上はかかりそうだ――。
      *  *  *
 同じころ、織田方では――。
「出羽介、馬と兵を貸せッ!」
 熱田から星崎を回り、丹下砦を経由して善照寺砦に到着した信長は、こめかみに青筋を立てて甲高い声を発した。
「兵は馬に乗れる者じゃ! 足軽は要らん! 早う支度せいっ!」
「お、お待ちくだされ、お屋形様。いきなりそげなことをおっしゃられても……ここの守りはいかがなされる?」
「町の者に竿を持って来させた。槍とともに立て回せ! なに、一刻ほど時を稼ぎゃあよいのじゃ、すぐに戻る!」
 瓶から柄杓で水を掬い、口を漱いだ信長は、もうそれ以上説明の必要はないとばかりに暗い建屋から飛び出して行く。
(いかんがや、逃げられてまう、逃げられてまう、逃げられてまうっ! ……いいや、逃がさにゃあでっ! 絶対に首を獲ったる!)
 そればかりを考え、ほかのことなど目に入らなくなっているのだ。
 しかし、昨夜から対岸の戦場を見ていた出羽介こと佐久間信盛は、状況を冷静に観ているため、勘気に触れる恐れを押して信長の肩を掴んだ。
「なりません、お屋形様! ここも中島砦も、漆山の今川勢から丸見えでござる! あそこには義元が来ています。いま打って出られたら……あっ!?」
 息を呑む信盛に釣られ、信長も視線を南に転じた。
 いましも、中島砦から打って出た三百ほどの兵が、手越川にかけられた橋を渡って大高側へ駆けて行くところだ。
「佐々に……千秋か。たわけめ、先走りおって……!」
 信盛が舌打ちしている間に、佐々政次と千秋四郎が率いる三百ほどの兵たちは橋を渡りきり、そのままの勢いで対岸の畦道を山側へ突進していった。漆山と呼ばれる小高い丘の上にはまだ今川方の幟が揺れており――中腹から矢が放たれたあと、逆落としに駆け降りた騎馬隊が織田方の中に突っ込み、槍を燦めかせてたちまち突き崩してしまう。
「御覧なされ、お屋形様。いま出て行ってもああなるだけでござる。ここはこらえて、明日の戦に備えてくだされ!」
「いや、よく見ろ出羽介。今川の騎馬は足取りが鈍い。徹宵で砦攻めした直後だ、疲れ果てておるわ!」
 信長が言う通り、三百の兵をたちまち斬り倒した騎馬たちは、一転して重い足取りで漆山に戻り始めた。そうして見回せばほかに旗は見えないから、あれは殿軍なのだろう。


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