選択の権利-1
崩れかかった古い教会は、火事の焼け跡が生々しく残る、絵に描いたような廃虚だった。
周囲の建物は、教会と一緒に焼けたらしい家々の廃虚ばかりで、市場の賑わいが嘘のような静けさだ。
教会の庭や墓地には背の高い雑草が生い茂り、秋の虫がせわしなく鳴いている。二メートルほどの鉄柵門には錠が下りていたが、アンは鉄棒を掴んで苦もなく門を飛び越えた。
草をかき分けて進み、朽ちた礼拝堂の入り口で振り向いた。
「来たわよ。一体、何の用?」
沈む寸前の夕陽を背に、さきほどの人狼が立っていた。
足音一つたてずにアンをつけていた男は、犬歯をむき出して嫌な笑みを浮かべている。
「来い」
素早く伸びた手がアンの腕を掴み、否応なしに礼拝堂の中に引き込まれた。
中は暗く、男の目がいっそう凶暴な金色に輝くのが目立った。
「混血の視力がどこまで劣化しているかしらんが、灯りが必要か?」
男は嘲るように、先ほど買った魔法灯火を見せる。
「お気遣いどうも。私はハーフだけれど、この程度なら見えるわ。それにすぐ帰るんだから、どのみち必要ない」
アンは男をひと睨みし、手首を振ろうとしたが、がっちりと食い込んだ指は離れない。
「単刀直入に言おう。俺の子を産め」
「……は?」
思わず間の抜けた声で聞き返してしまったが、次の瞬間には、両腕を背中でねじり上げられ、壁へ顔を押し付けられていた。
「っく!?」
「呆れるほど動きも鈍い。いくら人狼の数が少なくなったからといって、劣等種なんぞの血が混ざると、これだからな……」
怒りと嘲りの混ざったような声で、男が唸る。
「混血が悪いって言うの?」
痛みに顔をしかめながら、アンは険悪に尋ねた。
「そうだ。俺はつがいにする雌を何年も探していたが、ようやく見つけても年を取りすぎているか、もうつがい持ちばかりでな。お前は混血だが、この程度なら我慢してやる」
余りのセリフに絶句した。
人狼はその強さからつい傲慢になり、他種を見下す悪癖があったと、確かに父は言っていた。
でも、純血種のうえ族長の息子だった父は、こんなに酷い傲慢さなど持ち合わせてはいない。
人狼という種に誇りを持ってはいても、他の種を……人間の母を見下したりしない。
種は違っても、真剣に愛していたから『つがい』になってくれと頼んだと、照れくさそうに言っていた。
そんな父だからこそ、普通の犬や狼があれだけ苦手な母が、父を受け入れたのだろう。
首をねじって、男に言い返す。
「私にも、もう相手がいるのを知っているでしょ!? それに、もしいなくても、アンタなんか絶対に、つがいには選ばない!」
鈍い音とともに、額に激痛が走った。
殴られた衝撃に、アンの前髪を留めていたピンが弾け飛び、男の足元へ落ちる。
「自惚れるな。俺がつがいに求めるのは純血の雌に決まっている。お前は最悪の事態に備えて、念のために確保するだけだ。少しでも濃い人狼の血を残すためにな」
そして、ふと思い出したように男は喉を鳴らして嘲笑った。
「どうせ妻の名目だけで、女扱いはされていないようじゃないか。お前からはまだ生娘の匂いがする」
「なっ! 余計なお世話……っ」
痛い所を突かれ、声が裏返る。
口端を歪めた男が、毒を吹き付けるように囁きかけた。
「あの赤毛は、お前の正体を知っているのか? 抱かれないのは、人狼と気づかれているからかもしれんぞ。臆病な人間は、俺たちを恐れるからな」
「ち、違う……チェスターは、知っているもの」
思い切り怒鳴ったつもりだったのに、喉から漏れた声は頼りなく揺れていた。
チェスターはアンが人狼ハーフだと恐れたり蔑んだことなど、一度もない。
この先もずっと、そんな事をしないと、信じている。
――――でも、最後まで抱いてくれないのは事実だ。
その理由が人狼だからなんて考えたこともなかったのに、海綿に毒液が滲みこむように、男の言葉はアンの心を蝕む。
「フン、それならなぜ抱かないんだ? なんの利益があって、お前を手元に置いている」
「それは……」
「ほら、さっきまでの威勢はどうした?」
壊れた窓の外では、すでに夜空に大きな満月が輝き始めていた。窓から差し込む月光を浴び、男が心地良さそうに喉を鳴らす。
「俺も今日は気分がいい。大人しくするなら、それなりに楽しませてやる」
力なく俯いたアンが黙っているのを、勝手に了承と取ったらしい。
満足気に笑った男は、床に落ちていた星型のピンに視線をやり、片足を軽くあげた。
「混血の分際で、幸運にも純血種に選ばれたんだ。人間のことなんぞ忘れろ」