忠勇なる盾 ★-1
時に西暦1988年
“彷徨える盾”が古に想いを馳せ、再びその身を凌辱の渦中に高ぶらせる中。
“忠勇なる盾”がその使命を一時的にではあるが、想い起そうとしていた。
「佑香、石崎佑香に逢わなくては…… そして告げなくては…… ならない」
少年は内なる声に突き動かされ、再び少女に逢うため行動を起こす。
しかしそれは結果的に、再びその意識を深い心の奥底へと誘う事になる。
少女に再び逢う為、駅の構内を足早に移動する少年に、忘れ得ぬ佑香の叫び声が届く。
人混みを切り裂く様な危険を知らせるシグナルに、少年の意識は唯一点のみに絞られる事になる。
「守らなければいけない!」
美しくも可憐な少女の前に刃物を持った男が立ち塞がると、少年はその身を間に割り入れる。
その男の歪んだ感情と共に次の行動が、少年の脳裏に浮かびあがりそれを阻止せんとする。
精気無く虚ろな眼が目前に迫り来ると、少年には瞬時にその男の数ヶ月に及ぶ思考がトレースされる。
男の少女に対する想いは尋常ではなく、俗に言うストーカーであった。
もちろん少女もその男に対する面識も無く、まさに男が一方的に歪んだ好意を寄せていたに過ぎない。
男は30代半ばでどう見ても少女と釣り合いの取れぬ年齢に容姿であった。
少年がその身を挺し守る少女こそ、“天女の末裔”たる石崎佑香が成長した姿であった。
「何故? 何故なんだ? 佑香ちゃん」
見知らぬ男は、佑香の名を呟きにじり寄ってくる。
突然の恐怖に震え立ち尽くす佑香に、常軌を逸している男は躊躇う事無く襲いかかる。
「どすっ」
逃げる間も無く、鈍い音と共に佑香の腹部に狂乱の刃が突き立てられる。
ほどなくして、深紅の鮮血がタイル上に流れ伝わる。
またひとり、天女の末裔が消えたる瞬間と思われた時。
「なんだぁ、てめぇーは? 邪魔だ、邪魔、どけぇーっ」
佑香と自分の間に身体を割り入れた少年を突き飛ばすストーカー。
少年は力無く、タイル床に崩れ落ちる。
再び佑香に襲いかかろうとするストーカーの手に刃物は無かった。
刃物は突き刺された少年の腹部に在る形で取り上げられていた。
少年の両手はしっかりと自身に突き刺された刃物を掴んでいる。
タイルに滴る鮮血は、佑香から流れ落ちた物では無く少年の物だった。
ほんの数秒間の出来事であった。
周囲がざわつき始める。
凶器が無い事で漸く周囲の大人が、5人がかりでストーカーを押し倒す形で取り押さえる。
その後警官と救急車の到着に数分を要する事になる。
恐怖で脚の震えの止まらない佑香であったが、その身を挺して自分を守ってくれた少年に歩み寄り跪く。
腹部より大量の出血をし青白い少年の顔を窺うと、その見覚えのある顔に佑香は驚きを隠せなかった。
そして少年の名を数年ぶりに口にする。
「せっ、千章君」
その名を口にすると、何故か大粒の涙が止めど無く佑香の頬をつたう。
同時に内に秘める何かが、想い起せぬ何かの記憶が疼き始める。
遠い昔に観た光景。
自分なのに自分では無い自分が何故かそこに居る。
目の前で起きてしまった事を、自分は何度も目にし経験している?
僅かであるが佑香の記憶が過去を振り返る。
しかしすぐ近くで自身に呼びかける声に、現実世界へと呼び戻される。
「覚えててくれましたか、石崎さん。どうしてもあなたに、詫びを言いたくて来てみたら…… でも良かった」
その様子からは信じられぬ程しっかりとした口調で、少年は再会した佑香に受け答えする。
「いいの、そんな事よりすぐに救急車が来るから、しっかりして」
激しい出血を見せる腹部に手をあて、複雑且つ神妙な表情で命の恩人に向き合う佑香。
その手はもちろん、身に付ける制服にも見る見る少年の血が沁み移る。
「大丈夫、痛くは無いんです。ただ頭が軽くなって…… ひどく眠い気分、まるで温かいお湯の中に浮かんでいる様な…… それに貴女に逢えて、悪い気分じゃない」
それが死に直面する状況だと理解した上で、少年は状況を冷静かつ正確に伝えた。
「……」
佑香は何も言えなかった。
その状況を正確に理解出来た訳では無いが、おそらく自分が想像している最悪の結果を本能的に感じ取っていた。
「これで…… あの事は許してもらえないでしょうか?」
少年は、今日ここに来た目的を少女に伝える。
「……」
無言で小さく頷く佑香。
救急車が到着し、少年はストレッチャーに乗せられる。
「また…… 逢えたら…… 」
意識が薄れゆく少年はもう声を発する事が出来なかったが、その口元はこう言っている様であったと少女は記憶する事になる。
「必ず、次の私があなたを…… あなたを必ず ……れます」、
不思議な感覚に囚われながらも、佑香は自ら意識する事無くその後にこう続けるのであった。
自ら口にした佑香であったが、その意味すら理解出来なかった。
その不思議な約束が果たされるのは、……年後となり佑香が口にした通り ……となる。