ジークの一番災難な日-9
鼻がくっつきそうなほど責め寄る男に、女教師が落ち着き払った冷ややかな声をかける。
「その劇のことだ! もう一度言う。私は娘から、主役に選ばれたと聞いておりましたぞ。それがなぜ、ネズミの役なのですか!」
ヒステリックにわめく男が、太った指を部屋の隅にいた少女に向けた。眼鏡をかけた大人しそうな女のガキで、作り物のネズミ耳と尻尾をつけている。
「お父さま……」
血の気の引いた顔でガクガク震えているガキへ、女教師はチラリと視線を走らせてから、男爵だったらしいセイウチ男に向き直った。
「先ほどもご説明しましたように、今年の劇はどの学年も、魔道試験で首席の者が主役になっております。クラリッサがご家族になんと申し上げようと、変更はございません」
ピシャリと断言され、セイウチ男の顔が怒りに赤黒く膨れた。
さっきまであれほど騒がしかった室内は、緊張した空気が満ちて静まりかえっていた。
ガキたちは強張った顔で、二人の大人へ注目している。
「私の大切な娘が、嘘を言ったとでも!? 娘はこのクラスで一番優秀なはずですぞ!」
もう一度、父親に指を突きつけられ、クラスメイト全員の視線を集めた眼鏡のガキは、顔を真っ赤にして俯く。消えてしまいたそうに、身を縮めていた。
どうやらアイツが親についていた嘘は、一つどころじゃなかったみたいだな。
「今すぐ配役を替え、クラリッサを主役にするよう、断固として要求します!」
はー……、もしかしてこれ、|魔獣両親《モンスターペアレント》とかいう奴か? 前に子持ちの同僚が、マジで駆除したくなるほど迷惑だって、愚痴ってたな。
実際に見ると、確かに迷惑さは半端ねぇ。おまけに相手は人間だし、あきらかに迷惑なのに犯罪じゃないから、駆除もできないのが余計にタチ悪いな。
「申し訳ございませんが、それはできません」
「これだけ私が頼んでいるのに!? 教師のクセに、親の心を理解できないのか!?」
怒り心頭なセイウチ男と引き換えに、女教師はあくまで冷静だ。
「男爵、どうか講堂でお待ちください。……皆さん、各自の用意を続けなさい」
教師に促され、ガキたちは状況を気にしつつも、神妙な面持ちで劇の準備を再開した。だがセイウチ男は尚も食い下がる。
「先生! クラリッサに恥をかけと言うのか!?」
……いやはや、娘に恥ずかしい思いさせてんのは、まぎれもなくお前だから。
俺は呆れて、自分勝手な主張を喚く男を眺めた。
育児放棄してた俺の母親とは真逆のタイプに見えるが、根っこのところは同じだ。
てめぇが大事なのは、娘じゃなく自分の見栄だろうが。
(……それに、お前も悪いんだぜ?)
涙を浮かべて立ち尽くしている眼鏡のガキに、俺は声に出さず呟いた。
誰だって嘘くらいつくさ。いつも正直でいろなんて言わねーよ。だが、絶対にバレる嘘なら、最初からやめとけ。特に、あとでベソベソ泣くくらいだったらな。
「私は認めないぞ! こんな平民の子が、クラリッサより優秀など!」
セイウチ男が声を張り上げて俺を指し、ギッと睨む。
「は?」
いきなり矛先が向いて驚いた。
つーか、いくら爵位もちだからって、今の時代に『平民』はないだろ。それ、笑うところなのか? マルセラにケンカ売る時点で、笑えねーけどな。
思わず眉間に皺を寄せちまった俺を、エレオノーラが庇うように、そっと隣へ寄り添った。
「気にすること、ありませんわ。先生に任せて無視しましょう」
小声で囁かれたが、ふと俺の頭に一つの考えが浮かんだ。
――待てよ。
このセイウチ親父はムカつくが、コイツがごねて主役が代われば、俺は舞台へ立たずに済むわけだ。
客席からウリセスが台本を開き、こっそりセリフを見せる手はずになっていても、俺にできるのは、せいぜいがたどたどしい棒読みだ。王子に求愛されるシーンなんか、想像しただけで鳥肌が立つ。
それくらいなら、あの眼鏡ガキの方が、ずっとマシだろう。
マルせラは皆に迷惑をかけるから絶対に休めないと言ってたが、この状況で辞退すりゃ、迷惑どころか騒ぎも収拾できて万々歳じゃねーか!
運がよかったな、セイウチ親父と眼鏡ガキ!