ジークの一番災難な日-10
「どうしましたの?」
熱心に考えこんでいる俺に、エレオノーラが怪訝な声をかける。俺はにっこりと……いや、ニヤリとなっちまったが、笑いかけた。
お前も役とはいえ、親友をイビらなくて済むんだから喜べよ!
「先せ……」
辞退を告げようとした時、セイウチ親父がゴホンと咳払いをした。嫌味ったらしい視線で、チロリと俺を眺め降ろす。
「マルセラ・フェリシアーノだね? 君の話は聞いているよ。こんな事は言いたくないが、何年も昔の事をいつまでも引き摺って甘えるのは感心せんな」
「……は?」
セイウチ男の言う意味が理解できず、俺はキョトンと間の抜けた顔になる。
一方で無表情を通していた女教師は、初めて眉を潜め、不快を露にした。
「男爵。お話は後でお聞きしますので、どうぞ今はもう……」
女教師の剣呑な声を、セイウチ男は大袈裟な身振りで制止する。
「先生、特別扱いばかりしていては、子どもは駄目になりますよ」
……特別扱い? なんでそう思うのか知らねーが、とりあえずお前が言うな。
黙っている俺を眺め、セイウチ男は苦笑した。
「両親を亡くした可哀想な子だと、先生は君に同情して優遇してくれるのが、魔獣災害の遺児など大勢いるんだ。君だけが辛いわけじゃない。
ここに在籍を許されているだけでも感謝して、分をわきまえるべきだ」
「……」
コイツが酷くムカつく事を言っているのは解るのに、その言葉は頭の中でけたたましくわめくだけで、意味をはっきり理解しない。
あまりの嫌悪感に、頭が理解するのを拒否している。
「酷すぎますわっ!」
嘲笑する男を、エレオノーラが憤然と睨む。女教師が、男爵へ向ける視線の温度を三段階は冷やした。
「エレオノーラは黙りなさい。
……お言葉ですが男爵。劇の配役とはまるで関係ないお話ですわね。そして私も他の教師も、マルセラを他の生徒とまったく同じに扱っております」
しかし男爵は薄ら笑いを浮べたまま首を振り、大袈裟な溜め息をつく。
「建前をおっしゃりたいのは解りますよ。
だが、彼女は幼稚舎の頃、二年近くも口が聞けなくなり、休学していたというではありませんか。そんな子が、本当に優秀なわけがない」
そこまで聞いて、ようやくコイツが『マルセラ』に言った侮蔑を、はっきり理解した。
―― 殺す。
衣装を床に放り捨て、姿勢を低くして身構えた。床を踏みしめ、跳躍の準備をする。
だが拳を固めた瞬間、ふと違和感に気づいた。
握り固めたこの手は、俺の手じゃない。
小さくて綺麗な、マルセラの手だ。
『これだけは肝に銘じてください。貴方の行いは、全てマルセラちゃんの行いとなり、場合によっては彼女の今後にも、多大な影響を与えます』
ウリセスの言葉が、やけに大きく頭に響いた。
「っ……」
九歳児のか弱いガキの身体になってても、腕力だって一緒に移ってるんだ。
この鈍そうなセイウチ男をブチのめして半殺しにするくらい、簡単にできる。
……できる、んだ……けど、よ……。
「……マ、マルセラ?」
エレオノーラが脅えたような顔で、殺気全開で目をギラつかせている俺を……親友であるマルセラの姿を見ている。
他のガキ共も、驚愕と脅えを浮べて、こっちを見ていた。
「っは……はぁ……は……っ……!」
全身にたぎりたつ怒りにわななきながら、俺は喘いだ。
俺にとっちゃ、ケンカは勝つか負けるかを楽しむ娯楽だ。
純粋にムカついたという動機で、これだけ強烈に誰かを殴りたいと思ったのは、何年ぶりだろう。
殴りたい。
最悪な形でマルセラを侮辱しやがったコイツを、心底から殴りたい!!
魔獣災害の被害者なんか、星の数ほどいる。退魔士の俺はよく知っているさ。
そして、悲劇に潰れるだけの人間がいかに多いかも……マルセラが立ち直ろうと、どれだけ無理しているかも、知ってんだよ!!
「はぁっ……く………ぅ……」
握り締めた拳が震える。
コイツを殴って半殺しにするのは簡単で、さぞ気分が晴れるだろう。
だけど、それをやっちまえば、友人たちがマルセラを見る眼は、すっかり変わっちまう。
この拳は、俺じゃなくてマルセラものだ。
ガキの頃、いつも俺に向けられていた脅えと嫌悪の顔と、さっきマルセラへ向けられていた親しみの笑顔が、脳裏へ交互に浮かぶ。
「〜〜っ!!!!」
硬く目を瞑って、歯を喰いしばった。
悔しすぎる。頭ん中がグチャグチャだ。
友達いっぱいつくって、学校で楽しく勉強したいなんて、俺は一度も思わなかった。
でもマルセラはこの学校が好きで、友達も好きで、ちょっとばかり厳しい教師も好きなんだよ。俺にも学校であった事を、しょっちゅう話すしな。
俺は無愛想な返事ばっかで、上手い感想なんか言えねーけど、ちゃんと聞いてるんだ。
だから……俺の気晴らしの代償に、マルセラの幸せな生活が壊れるっていうなら……
―― 絶対に、死んでも、殴りたくねぇ!!