その(3)-2
「とにかく、ですね。ここだけの話ですがーー」
坂井はささやくように話し始めた。
「まだはっきりしませんが、いずれは向井先生には番組を降りてもらうことになると思うんです」
「何か、まずいことでも?」
「まずいというか、なにしろ大御所ですからね。ワンマンなんです。スタッフにしても若い人達が台頭してきていますでしょう。折り合いがよくないんですな。何かとスムーズにいかなくて」
「そうかもしれませんね……」
「ええ。あ、どうぞ」
坂井はコーヒーをすすめたが、すでにぬるくなっていた。
「先生は。向井先生とは?」
「よく存じ上げません。一度挨拶程度にお会いしただけで」
「そうですか」
「雲の上の方ですから」
坂井は、皮肉をこめた言葉と受け取ったらしく、可笑しそうに口元を緩めた。
「それにしても、私どもが向井先生を敬遠している理由のもう一つは」
坂井は言いかけてドアの方に目をやった。
「あの方の、例の、癖といいますか……」
「クセ?」
「ええ。ご存じとは思いますがーー」
坂井は憚るように小指を立ててみせた。
「とにかく度がすぎましてね。番組でもアシスタント二人とコーラスガールが四人いるんですが、全員なんですよ」
「向井さんのーー」
「早い話がお手付きですな。みんなまだ子供ですからね。断ると番組を降ろされるとでも思うらしく。ある程度はこちらでも目をつぶりますが、参ります。私どもの仕事は一見気楽なように見えますが、けっこう細々としたことが浮沈にかかわるんです」
坂井はそれからも、変に誤解されては困ると前置きしながら向井の目に余る行状を並べたてて聞かせたが。どうでもいいことではあった。向井が何をしようと知ったことではない。
そう思いながらも腹が立つことは立つ。人非人とさえ憤りたい気持ちもある。自分だって潔癖ではないが、やはり限度というものがある。
どうでもいいと思っていながら、向井を頭から消し去ることができない。考え巡り、結局つきつめるところ、向井がなんだという低俗な怒りに行き当たる。
権力?に楯突く肩肘張った姿勢が自分にあるのか。名もなく地位もなかった頃、その地位や、あるいは個人に対して情けない妬みを絶えず噛みしめていた。だが、拾いもののように逆の立場にのし上がりながら、いまだに同じような鬱屈した思いを捨てられずにいる。
向井の影がやけにちらつくのは、なにもミユキを間に置いての意識ばかりではない。この業界でも指折りの乱行者である向井と自分との他者的対比に、時としてやっきになったりする気味もあるのだ。向井とまではいかなくても、それに近いことは自分でもできるという構えがある。しかしそんな真似をしたいかと問われればしたいとは答えないだろうし、したくないのかと訊かれれば、薄笑いを浮かべて首をひねるかもしれない。そういう恵まれた位置にいることが却って重荷でもあった。
いつだったか、うじうじしていないで割り切れと北山に言われたことがあった。それが出来ないなら、作家として歌だけ作って生きていけと言った。
無闇に腹が立った。彼に対してではなく、自分だけが特別の姿勢を保とうとしている背面がわかっていたからである。
向井のごとき人間とは根本的に違うのだという強固な意識。そして否定できなくなると無関係な事までが理由を失い、土台が崩壊してしまったかのような絶望的な錯覚に取りつかれてしまった。その心情は波に似て、増幅され、何もかも、生きていくことに不随するあらゆることに弁解をし続けているように思えるのだった。何に対して拘泥しているのか、その時点で曖昧だった。
「飛行機は前日でも、いつでもご希望のチケットをお取りしますから、お早目に」
坂井が言った時、向井の利用便を訊ねたのは明らかに馬鹿げていたが、所詮、そんなところが一人の人間の相応な現在なのかもしれなかった。