その(2)-2
歌を作ると約束してからずいぶん経つ。その気になれないのはどうしたわけだろう。ミユキと出会ってから他の仕事はいくつも仕上げていた。
CD化するとなれば彼女の所属先と契約することになる。つまり、事務以前にミユキという女がいることでためらっているのか。
無名の歌手に流行作家がプロダクションやレコード会社の依頼もないのに曲が提供される。当然その関係が取りざたされる。面倒なことにならないか。やはり避けたい気持ちはあった。
個人的な感情によって曲ができることはある。あの歌手に歌わせたいという想いにかられて作家の方から売り込む場合もある。歌手のイメージによって自分の創作意欲を高めることはままあることだ。
それを考えれば何とか理由づけは出来そうな気もしたが、ミユキはあまりにも無名すぎる。
「ほんとに作ってくれるのね」
「嘘は言わないよ」
「約束したわよ、先生」
「約束……」
「一番いいのを作ってね」
もっとも気に入った歌をミユキに歌わせようと思っていた。だからだろうか。その力みが作品に結びつかないのかもしれなかった。
ミユキは一度も催促したりしなかった。疑いの眼差しを向けることもなく、気まぐれのようにやって来て、自分で勝手にコーヒーをいれて飲み、煙草をふかし、ピアノをいたずらして帰っていく。
たいていは一回だけノックをして、
「来たよぉ」と語尾を伸ばしながら入ってくるのだが、時には音もなく背後まで忍び寄ってきて、
「ワァ!」と大声を出してはしゃいだりした。
そうやって日をおいて忘れずにやってくる。なのに約束の歌については自分からは一言も口にしなかった。あてにしていないのか、とにかく本心から作ると言っただけに気になっていた。
「ふだん、何してるの?」
「いろいろよ」
「歌手じゃやっていけないだろう」
「ああ、そういう意味?お店いってるの。夜だけど」
「クラブ?」
「バー……」
「どこにあるの?」
「歌舞伎町」
「こんど、行ってみるかな」
「だめ」
「どうして?」
「いいお店じゃないもの」
「なんで君は行ってるの」
「あたしはいいのよ。お客さんにはいいお店じゃないの」
真面目な顔をして言う。時々少し頭が弱いのかと思うこともあったが、まったく反対の印象を受けることもあった。
「誰かお金くれる人はいないの?」
「前はいたけど」
「今は?」
「いない。だけどまた出来るでしょ。世間は広いから」
ふと、世間という語感がおかしくなって忍び笑いをした。
「なあに?」
ミユキが寄り添ってきて白い歯をみせた。いくらか反っ歯だったがきれいな歯並びをしている。
私の首に腕を回して頬をすり寄せてくる。唇が迫り、軽く触れるとミユキは吸いつくように押しつけて、舌をさしこんできた。力をこめて抱いた。華奢な背中が愛しい。
「先生、今日は剃って」
「気になってきた?」
「そうじゃないけど……」
毛は細くて産毛のようで、しかも割れ目の上にわずかにあるだけだ。
「先生に剃ってもらってると、感じてきちゃうの」
「そう……」
「先生は、感じない?」
「感じるよ……」
最近媚びた言動がときおり見られる。やはり関係を持ち、自分の歌が欲しいのだろうか。
「もうすぐ作ってあげるからね」
「そうだ。約束したんだなあ」
忘れていたように言う。
(本心なのか?)
「今月中に作るよ」
「ゆっくりでいい」
「なんで?」
だって、時間かけたほうがいいのが出来るんじゃない?」
そんなことはないが、内心ほっとした。
「歌謡史に残る名曲を作ろうか」
ミユキがまた唇を合わせてきた。
ミユキのさりげない応じ方には複雑な安堵を味わった。
ゆっくりでいい……ゆっくりでいいのだと念ずる心に、やるせなくも心地よい、糸をひく感情があるのはなぜだろう。目を充血させて現われたりすると暗い想いに落ち込んだりするのはどうしてか。彼女はコロコロと笑っているのに。
ある時、ミユキは呆気なく涙を見せた。
「ゆうべ、ナンパされたの。十万あるから遊ばないかって」
「それで?」
「スナッ行って、チャンポンで酔っちゃった。相手はあんまり飲まないの。先があるからね」
「行ったの?その先」
「うん……」
ミユキは心持ち目を伏せた。
「それでお風呂入ってる時に調べたら三千円しか持ってないの」
「ふーん……」
「これじゃやられ損じゃない?三千円かっぱらって逃げてきた」
いやな気持ちになってミユキを見据えた。その目の意味を察したのか表情が硬くなった。
「そんなこと、いつもやってるのか?」
「いつもなんか。たまたまよ」
「犯罪だぞ」
「だって、騙したのよ」
その時ミユキはもう涙を浮かべていた。
「金があったらそのまま寝たのか。やっぱり盗んだのか」
「盗んだなんて……」
ミユキはすすり泣き出した。
「だって、いいこと何にもないんだもん……なんにも……」
それから間もなく、ミユキはうなだれて帰っていった。もう来ないかもしれないと思っていると、三日ほどして何事もなかったように、
「ただいま参上!」とおどけてみせた。
無性に嬉しかった。劇的な再会のように両手を広げ、抱き締めた。そしていつからか、心の中にミユキが棲みついているのだという実感が熱をもった。
犯罪を犯し、罪の意識もない。過去にも何かしら問題はあっただろう。これからも繰り返すかもしれない。そんな彼女の足音に耳をそばだてている。常に気持ちの中にミユキがいた。