瑠璃色の蝶-6
俯いた侭立ち上がって、そう言った。何も言わない先生の横を通り過ぎようとする。しかし、意外にも先生は横切ろうとした私の腕を素早く掴み取る。痛いくらいに力強く。動けなくなった。
まるで金縛り。それは腕の力ではなく、殆ど魔力に近かったかもしれない。先生の、奥に潜んでいる厚さの定かでない愛が、私を拘束した。
「ちょっと来て、」
立ち止まった筈だった私は引き摺られるように、先生と再びリビングへ戻る。やはり黒い、遠い昔に見たような悲しい感覚をもたらすそのリビングへ。更に、南側に設けられたガラス戸を開けて、ベランダに出る。
夜風のまやかしに包まれた私。驚愕に思わず目を見開く。
まるで漆黒の絨毯の上、躓いた拍子に、抱えていた瓶の中に入っていたガラスの破片を、過って零してしまったかのよう。細かく燦然たる美しい光達が私の目下に、ざざっと飛び込んできた。高層マンションの12階から見る都会のビスタ。単純に、美しいと思った。見惚れて、言葉を失うほどに。
「綺麗だろう、」
先生がいつもの温かい声で言う。私はただ黙って頷く。
考えていた。この光景を私に見せてくれるために、ここへ連れて来てくれたのだろうか。先刻の、私の悲しい心を想って。
思わず、先ほどまで先生が握っていた、心地好い自分の腕に逆の手で触れながら痺れを確かめる。
希望の夜風が、私をなぞる。
もしかしたら先生は、私が思っているより
私はそう言い残し、素早く部屋の中へ入った。キッチンカウンターに、ポットが置いてある。軽快な足取りでテーブルの上のカップ2つを手にとり、キッチンの流しで軽く洗った。カップの水滴を布巾で拭きながら、ベランダに居る先生を見る……否、見ようとした。だが、そこに居るはずの先生はいない。夜風にカーテンレースがゆれているだけだ。
不思議に思った私は、洗い立てのカップをポットの脇に置いて、ベランダへ戻る。
「先生、」
私は忘れてしまった星座の名前を図鑑で調べるように、「ひょこっ」と夜風に顔を晒す。
そこにはちゃんと、先生は居た。ベランダの、手すりの角の上、ゆらゆらと、バランス悪く屈んでいる先生が。
夜の綺麗な景色をバックに、ピエロの霊にとり憑かれた先生ではない先生。
変な光景。合成写真のよう。
「何しているの先生?」
先生は微笑んでいる。いつもと同じ、優しい微笑みだ。
恰好と表情が合致しない。
「ばいばい、」
私が下らないことを考えているうちに、先生はそのまま、蝙蝠(こうもり)の如く綺麗なフォームで身を翻し、落ちていった。
下に。そう、下に。
ぺしゃ。
至極小さいが、確かに聞こえた生々しい音。
走馬灯のように先生との様々なことが思い浮かぶ反面、一体何が起こったのか判らない私。ただ、ミルクの優しさにされたのとは違う圧縮が、私の頭の奥を捉えていた。
「先生、」
時が止まる。
代わりに、用意していた言葉が頭の中を反芻する。
カップを洗いながら先生に言おうと思っていた言葉が過ぎる。
ねえ先生、明日もまた、ここに来てもいいかな。
これからずっと、透子って呼んで欲しいンだけど、いいかな。
私は先生を愛しているのだと思うから。
何度も何度も、私の中心を横切り、往復していく言葉の束。
「死は永遠だ」と誰かが言っていた。
確かに、永遠だった。
私の中に、確実に先生は生き続けた。
忘れ去られること無く。私は先生を生かし続けた。
笑ってしまう。