(第一章)-5
ノガミのからだに強く抱かれた自分のからだが、何かを捨てようとし、何かを喘ぐように求め
ていた。それが何なのか、自分でもわからない。私は、いつのときも彼の体に溺れることで、
何かを得ようとしていた。でも今の私の脱け殻のようになった空洞の中には、つかみどころの
ないノガミという男が亡霊のように漂っているだけだった。そして、夢の切れ端のような遠い
記憶だけが、私の蜜液の断片を淡く消え入るような自分の性へかろうじてつなぎとめようとし
ていた。空洞のなかで、乱れ咲く冬桜の花びらが極彩色の死にかけた蝶へと変幻する。蝶は虚
ろに羽を広げ、虚空をつかむように囀り、私の蜜液を啜りながら淫猥に笑っていた…。
ふと、私は思い立ったようにノガミの携帯に電話をいれる。
…早くでかけたのね…気がつかなかったわ。ねえ、今度、時間ができたら、あの湖畔のホテル
に行けないかしら。あなたとつき合い始めた頃に泊まったあのホテルのことよ。庭園の冬桜が
とても綺麗だったじゃない。約束ね…
甘く媚びるようにノガミに言葉をかける。今の私にとっては、つかみどころのないノガミなの
に、なぜか彼にずっと抱かれていたかった。
あの頃、場所が違うと気分も変わるな…と言いながら、あの湖畔のホテルで、ベッドが軋むく
らいノガミと私は抱き合った。互いに何かを求め合い、強く抱き合っていた。求めるものがわ
からないのに求め合っていたのだ。いつのときもそうだった。それがいつから変わり始めたの
だろうか…。
いつしか彼を受けとめるものが、どこまでも充たされない肉の枯れていく喘ぎと思えるように
なったとき、私は性の倦怠感を強く感じるようになっていた。どこかにゆっくりと堕ちていく
ような肉襞の喘ぎ…。でも膣穴の空洞から聞こえてくるものは何もなかったのだ。
私はノガミになにを望んでいるのか…私の体のなかで重くゆらぐものが、少しずつ不安定さを
増し、耐えがたいほど切なく溶け出していた。彼の肉体と性愛に何の魅力も感じることがなく
なったとすれば、私がふたたび鞭を手にするか、もしくは彼が鞭を手にするか以外に、ふたり
が行き着く果てはないのかもしれない。
真冬だというのに暖かい夜だった。仕事帰りに友人たちと夕食をともにした帰り道だった。
少し酔っていた私は、道を間違えたのか、ひとりでふらふらと繁華街の迷路のような路地に迷
い込んでいた。そして、私は路地の一角に小さな看板を掲げたカクテルバーの扉に吸い込まれ
るように入ったのだった。
店の名前は「プレジール」…フランス語で「快楽」という意味らしい。椅子が数席しかない
カウンターだけの狭い店は、壁灯の淡い光が深く澱んでいた。
店には、店主である肥えた中年男のバーテンダーのほかに、ひとりの若い男の客がいた。その
客が私の方を振り向いたとき、お互いの視線が吸いつくように絡み合った。その瞬間、彼は
薄い笑みを頬に浮かべた。私はなぜか彼の視線を避けるように無言のまま椅子に腰をおろした。
注文した白のスパークリングワインを店主が手際よくグラスに注ぐ。グラスの中で、まるで私
の中の甘酸っぱい蜜汁を誘い出すように細かな気泡が蠱惑的に戯れていた。