幸せな1日-1
静かな鳥のさえずりに杏樹は薄く目を開く。
窓を通して柔らかな朝日が部屋中を満たしていた。
「んっ…」
心地の良いまどろみにあったが、ぼんやりとかすむ意識の中で枕もとの置時計が指し示す時刻を見て、彼女はがばっと跳ね起きた。いきなり動いた影に驚いて窓辺にいた鳥たちがバサバサと飛び去っていく。
「うそ、寝坊!」
そう叫んで慌ててベットから出ようと体を動かすと、下肢の奥になにやら異物感が残っている。
「…」
猫足のかわいらしい調度品で統一された自分の部屋。幼少期の家族写真が飾られた見慣れたフォトフレーム。かすかに香るラベンダーの香りは長兄から送られた芳香剤によるものだ。
(でも、昨日はダイニングで…)
きっと、眠ってしまった自分を兄がここまで運んだのだろう。体がさっぱりとしているのは、もしかしたら全身を拭いてもらったからかもしれない。
杏樹は複雑な心境になり、一糸まとわぬ自分の体を見下ろした。
胸や、足の付け根などに散らされた赤い印は彼女の純真な白い肌をひどく妖艶に見せる。その痕は昨日の情事を杏樹にはっきりと思い出させた。
(結局、兄さんを拒むことができなかった…。)
快感に流される自分に嫌気がさす。もしかしたら兄に嫌われたくないという思いも彼を受け入れてしまう一因なのかもしれない。
「っ…いけない。こんなことしてたら遅刻しちゃう」
無理やり頭の中から昨日の出来事を追いやって杏樹は手早くベットから出た。クローゼットを開けてあらかじめ今日のために決めておいた洋服に袖を通す。
ピンクの花柄ワンピースにシフォン素材のボレロ。キラリと光るハートをネックレスを着けて鏡台に座り友人に教わった通りの手順で薄く化粧を施す。
以前、『杏樹はストレートが似合うね』と言われたのを覚えているから、髪はあえていじらず櫛を通すだけに留めた。
全身鏡の前に立ってくるりと一回転して、スカートがふわりと舞うのに満足そうに微笑んだ。
「うん、大丈夫」
鏡の中の、頬を薔薇色に染めた少女にもう一度にっこり笑いかけてから部屋を出る。
「♪」
今日一日のことを考えると螺旋階段を下る足取りも自然と軽くなっていく。
(だって、今日は…)
「おはよう、杏樹」
突然、階下から挙がった声に杏樹はびくっと肩を震わせて声の主を見る。
「…おはよう、隆兄さん」
彼女がこわばった声で返事をするのを聞いてスーツ姿の隆一は昨日の意地の悪さがまるで嘘であったかのようにやさしく微笑んだ。
「すごく楽しそうだけど今日はなにかあるの?」
玄関に腰かけて皮張りの靴を履きながら何でもないことのように彼は尋ねた。
慌てて階段を下っていた杏樹はその一瞬段差に躓きそうになったが、背を向けている隆一をちらりと盗み見てほっとしたように強張った顔を緩めた。
「…っと、今日は友達とお買い物に行くの」
できる限り平素と変わらぬ声を取り繕いながら階段を降り切って兄のもとに向かう。
「そうか、楽しんでね」
鞄を手に取りながら満面の笑顔を浮かべる兄に、杏樹も同じ笑顔を返した。
「うん!…兄さん、朝ご飯作れなくてごめんなさい」
母がいなくなってからというもの家事全般は彼女の役目になっていた。兄たちはもちろん協力的だし、杏樹がすべてをやる必要はないと再三口にしていたがそれでも彼女は自分の仕事をさぼってしまったという罪悪感を感じてしゅんとうなだれた。
「気にしなくていいよ。杏樹はいつもよくやってくれているし。すごく感謝してる…それに」
隆一は言葉を切ってすぐそばまでやってきていた杏樹の耳元に唇を寄せる。
「今朝起きれなかったのは俺の責任でもあるしね?」
そう囁かれ耳朶にキスをされる。杏樹は顔を真っ赤にして兄を見ると、妖しい流し目を返されていっそう頬を染めるはめになった。
その一拍後、耐え切れないとばかりにぷっと吹き出してくすくす笑う隆一はもう普段の穏やかな兄の姿に戻っていた。
「朝からかわいい杏樹も見れたし、今日は一日がんばれそう。行ってきます」
そう言って両開きの重厚な扉に手をかける兄を「行ってらっしゃい」という言葉と共に手を振りながら見送る。パタン、という音がして扉が完全に閉まると、杏樹の顔から笑みは消え振っていた手は不自然に宙で静止した
「ふぅー…」
無意識のうちに長く息を吐く。
「ばれてない…よね?」
先ほどの兄とのやり取りを反芻しながらキッチンへ向かう。ダイニングテーブルの上に置かれているラップをかぶったサンドイッチと『おはよう、杏樹』のメモを見つけて彼女は嘆息した。
「普段はこんなにも優しいのに、な…」
手を洗ってからイスに腰掛けてサンドイッチに手を伸ばした。パンの耳のきちんと取り除かれたサンドイッチには杏樹の好みに合わせて少し焦げ目が付いている。
いつもより少し早めにそれを咀嚼して、2人分の食器を洗い終わって壁にかかっている時計に目をやると、家を出なければならない時間を10分ほど過ぎた数字を指していた。
「いっけない!」
ぱたぱたとキッチンを出て玄関に置いておいた鞄を肩に掛ける。お気に入りの靴につま先を通してあわただしく扉を開けた。
「行ってきます!」
しっかりと戸締りをして杏樹は小走りで待ち合わせ場所の駅への道を辿った。