温泉休暇の大騒動-8
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冬の陽が落ちるのは早く、すでに真暗になった周囲の山々を、粉雪混じりの冷たい風が吹き抜けている。
民家もない山奥を、防寒服に身を包んだ数人の男達が、雪を踏み越え歩いていた。
寒風は容赦なく襲い掛かるが、彼らは違法魔獣を使って犯罪を繰り返し、隣国で指名手配を受けている身だった。暖かな宿に堂々と泊まるわけにもいかない。
魔獣使い達は、手に持った鞭と薬物で、自分たちの持つ魔獣を統制していた。
男たちの後ろを、巨大な豚を二足歩行にしたような魔獣が、十頭ほどのろのろとついてくる。危険指定魔獣のオークだ。
青みがかった黄色の肌には何も着けていないが、分厚い皮下脂肪で寒さも平気らしい。
やがて彼らは暗い山の中を抜け、いくつもの宿泊施設の灯りが見える場所へやってきた。懐中電灯を消し、地図を眺める。
「あの建物でいいんだな?」
一番手前に見える、木造の風変わりな東風の建物を、一人が指す。
リーダー格の男が、ニヤリと笑って頷き、顎鬚にはりついた氷を払い落とした。
「そうだ。他の建物は鉄筋コンクリートで頑丈なもんだがな、ありゃ全部、木で出来てんだぜ? オークに壁をぶち壊させて入って、中の客を人質にとっちまえば、こっちのもんさ」
「なるほど、木のお家は危険だねぇ。レンガでつくらないと、狼さんに吹き飛ばされちまう」
古い童話を引用し、仲間が笑う。
「そういうことだ。もっとも、木のお宿をぶちこわすのは、豚の方だけどな」
魔獣使い達の笑い声が、冷たい夜風に響いた。
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温泉からあがったエメリナは、脱衣所の壁に貼られた説明図を見ながら、なんとか浴衣を着るのに成功した。
紺地に白とエンジ色の細い模様の入った浴衣に、赤い帯を締める。
「お姉ちゃん、綺麗〜」
マルセラがくるくると周囲から見回し、褒めてくれた。
彼女も白地に金魚の絵が散った浴衣に、赤い羽織を合わせた、非常に愛くるしい姿だ。
エメリナは浴衣に似合うよう、栗色の巻き毛を、アップでまとめてあげた。
「マルセラちゃんだって、すごく可愛いよ」
退魔士の家族や同伴者たちも、各々の浴衣姿を品評しあい、はしゃいでいた。
人懐こいマルセラは、同行者たちからも可愛がられていたし、同年代の子どももいたが、さっきからエメリナにずっとくっついていた。
他の母子に遠慮しているのかなと、なんとなく思う。
湯殿を出ると、従業員たちが夕食の準備に大忙しだった。見上げるほどの膳を積み上げて廊下を行き来する姿も、この旅館の名物らしい。
窓の外では、チラホラと細かな雪が降り出しており、寒風が積みあがった雪を吹き上げている。
しかし旅館内は、景観をそこねないように配慮しながらも、しっかりと暖房が設置されており、薄い浴衣でも風邪を引かないよう、温度を保っていた。
客たちは灯篭の照らす廊下を歩きながら、幻想的な雪景色を楽しんでいる。
エメリナは、ジークを待つマルセラと一緒に、男性用湯殿の入り口でギルベルトを待ったが、彼らは一向に姿を現さない。、
「……遅いねぇ」
いっそのこと、ジークの携帯でも鳴らしてみようかと思った頃、通路の奥がなにやら騒がしいのに気づいた。
「あ! マルセラちゃん、ジークはこっちだ!」
浴衣を着た青年が、下駄をカラコロ鳴らしながら、マルセラへ駆け寄ってきた。
黒髪を短く刈り上げた筋肉質な青年も、退魔士なのだろうか。
「ジークの奴、他から来てた男の客と、いきなり勝負始めちまって……」
「勝負!? そ、その相手って、もしかして灰色の髪をした、背の高い人ですか!?」
嫌な予感に総毛立ち、エメリナは青年に詰め寄る。
「え? そうだけど……お連れさんですか?」
「はい……」
温泉で血行の良くなった身体へ、ドクドクと鼓動がさらに早くなる。
今日は月も細いし、満月祭で一度決着をつけた人狼同士は、二度と死闘をしないとも聞いた。
しかし、彼らに何かあったのだろうか。
青年にマルセラをたくし、慣れない二本歯の下駄で廊下を急ぐ。
突き当たりの大きなホールに、人だかりが出来ており、中心で何かが起きているようだ。時おり盛大などよめきがあがり、激しく何かを打ち合うような音が、ひっきりなしに響いている。
「先生……っ!!」
駆け寄ったエメリナは、あんぐりと口を開けたまま、呆然とその光景を見つめる。
「いやぁ、お連れさん、すごいっすね。うちの一級退魔士と互角にやりあうなんて」
追いついた退魔士の青年は、マルセラにもよく見えるよう肩車してやりながら、呑気に頷く。
娯楽室らしい部屋には、いくつかの卓球台が設置されていた。
その一つで、ギルベルトとジークがラケットを手に、凄まじい勢いで球を打ち合っていたのだ。
二人とも浴衣と羽織に下駄という、しっかりした温泉スタイルながら、いつもとまるで変わらぬ俊敏な動きを発揮している。
あまりのスピードに、球がほとんど見えないほどだ。
周囲に人だかりが出来るのも無理はなく、他の客たちは凄まじい卓球勝負に興奮しきっていた。